第42話 そして、潮騒のプレリュード
# 第3幕 私たちのシンフォニー ## エピソード12 そして、潮騒のプレリュード
あの熱狂の「シーサイド・シンフォニー」から数日が過ぎ、町は少しずつ夏の終わりの気配を漂わせ始めていた。あれほどけたたましく鳴いていた蝉の声はいつしか遠のき、空の青はどこか澄み渡って、高く、遠くなったように感じられる。
高槻夏帆は、海が見える無人駅、夕凪駅のホームのベンチに座っていた。手には、数ヶ月前と同じ、一枚の進路調査票。だが、あの頃とは決定的に違うものがあった。以前は目の前に広がる空白が、まるで自分自身の空虚さを突きつけてくるようで息苦しかったのに、今はその白さが、無限の可能性を秘めた五線譜のように見えている。
カツ、カツ、と無意識にペンでベンチを叩く癖は変わらない。けれど、そのリズムはもう焦燥の色を帯びてはいなかった。むしろ、次に来るべき音を探るような、楽しげな響きを伴っている。
「やっぱり、ここにいた」
静かで、どこか涼やかな声に顔を上げると、天宮奏が立っていた。夏の陽光を浴びて、その輪郭は少しだけ柔らかく見える。彼の隣に立つと、いつも世界から切り離されたような静寂を感じたが、今はその静寂が心地よかった。
「奏こそ。もう東京に帰る準備?」 夏帆が尋ねると、奏は小さく頷き、彼女の隣に腰を下ろした。二人の間に、気まずさのない沈黙が流れる。遠い潮騒が、まるでオーケストラのチューニングのように、世界を満たしていた。
「進路、決めたんだ」 先に沈黙を破ったのは奏だった。 「東京の音楽大学に行く。もう一度、ちゃんとピアノと向き合ってみようと思う。コンクールのためじゃない。誰かの評価のためでもない。僕が僕の音を奏でるために」
その言葉には、かつての脆さは微塵もなかった。トラウマという名の分厚い氷を溶かし、その下から湧き出でたばかりの泉のような、清冽な決意が満ちている。
「そっか……すごい。奏なら、絶対、もっとすごいピアニストになるよ」 夏帆は心からの言葉を紡いだ。嫉妬でも、焦りでもない。ただ純粋な尊敬と、喜びが胸に広がる。
「君がいたからだよ」 奏は真っ直ぐに夏帆の瞳を見つめた。 「あの日、君が僕の前に現れてくれなかったら、僕はまだ鍵盤に触れることさえ怖かっただろう。君が僕の未完成な曲を、君たちの歌で完成させてくれた。あの時、僕は知ったんだ。音楽は一人で完璧を目指すものじゃない。誰かの心と響き合って、初めて生まれるものなんだって」 彼はポケットから小さなものを取り出した。細いチェーンに通された、ピアノの黒鍵をかたどったペンダントだった。黒檀のように艶やかで、静かな光を放っている。
「君が、僕の音楽の始まりだった。そして、これからも、そうであってほしい。…だから、待っていてくれるかな。僕の音が、いつか君に届く日まで」
遠回しな、けれどあまりにも真摯な告白。夏帆の心臓が、大きく、温かい音を立てた。彼女は黙って頷き、差し出されたペンダントを受け取った。奏の指先が、夏帆のそれにそっと触れる。夏の終わりの空気の中で、その一瞬だけが永遠のように引き伸ばされた。
「当たり前じゃん。私が、奏の一番のファンなんだから」 照れ隠しのようにそう言って、夏帆はペンダントを首にかけた。ひんやりとした黒鍵の感触が、彼の想いの重さのように胸に伝わってくる。遠距離恋愛。その言葉がふと頭をよぎり、胸がきゅっと締め付けられるような、甘くて切ない痛みが走った。
「そういえば莉子、最近すごく楽しそうなんだ」 夏帆は話題を変えるように、屈託なく笑った。 「歌うことが、前よりもっと好きになったみたい。『技術だけじゃ届かないものがあるって、夏帆が教えてくれた』なんて言うの。前は練習中に甘いものなんて絶対口にしなかったのに、この前、喫茶店でケーキセット食べながら発声練習しててさ。湊先生に『相沢さん、それは新しい表現方法かな?』って突っ込まれて、真っ赤になってたよ」 その光景を思い出し、夏帆と奏は同時に吹き出した。 「健太もね、秋の大会に向けてすごい気合入ってる。『お前の本気、俺にも火をつけた。中途半端な応援じゃ許さねえからな!』だって。私も、負けてられないよね」
快活で裏表のない幼馴染の顔が浮かぶ。彼が象徴していた「当たり前の日常」は、今も変わらずそこにある。けれど、その日常はもう色褪せては見えなかった。一つ一つの音が、輝きを持って響いている。
奏を駅で見送った後、夏帆は職員室のドアをノックした。 退院したばかりの湊誠は、窓辺の椅子に座り、スケッチブックに港の風景を描いていた。彼の周りだけ、時間の流れが少しゆったりしているように見える。
「先生、これ」 夏帆が差し出したのは、あの古びたチューニングフォークだった。
湊は顔を上げ、飄々とした、全てを見通すような笑みを浮かべた。 「おや、高槻さん。それはもう必要ないのかな。君だけの音は、見つかったかい?」
その問いに、夏帆は深く息を吸い込んだ。そして、自分の内側から溢れ出す言葉を、一つ一つ確かめるように紡ぎ始めた。
「はい。……ううん、まだ全部は見つかってないです。でも、どこを探せばいいのかは、はっきりとわかりました。前は、どこか遠くに特別な『正解』の音があるって、ずっと思ってたんです。莉子みたいに、奏みたいに、何か特別な才能っていう名前の楽器を持ってなくちゃ、自分だけの音なんて鳴らせないんだって。でも、違ったんです」
彼女の言葉は、もう迷っていなかった。あの夏、彼女を苛んでいた焦りや自己嫌悪は、確信という名の光に変わっていた。
「船の汽笛も、商店街のざわめきも、莉子の真剣な歌声も、健太が投げるボールの音も、奏が弾いてくれたピアノも……そして、みんなで笑ったり、喧嘩したり、泣いたりした時の、あのめちゃくちゃで、不協和音だらけだったハーモニーも。全部が、全部、私の大切な音でした。失敗したって、格好悪くたって、そこからしか生まれない音があるって、やっと知ることができました。どんな失敗も、いつかは素敵な思い出になって、未来の私を作ってくれるんだって」
夏帆は、湊から受け取ったチューニングフォークを、そっと彼の机の上に置いた。
「だから、もう世界の基準の音は、いりません。私の基準は、私が今まで出会ってきた人たちと、一緒に鳴らした音たち。この胸の中に、ちゃんと響いてますから。だから、もう大丈夫。この先、私がどんな道に進むことになるのか、まだ全然わからないけど……それでも、私は私の音を探し続けます。それが、今の私の、たった一つの答えです」
言い終えると、夏帆は自分の胸を、トン、と軽く叩いた。そこには、奏からもらった黒鍵のペンダントが静かに揺れていた。
湊は何も言わず、ただ深く、満足そうに微笑んでいた。その表情は、教え子の成長を喜ぶ教師の顔であり、同じように音楽の道で一度は迷った先輩の顔でもあった。 「……素晴らしいカデンツァだったよ、高槻さん。いや。君たちだけの、見事なシンフォニーだった」
職員室を出て、再び夕凪駅のホームに戻ってきた。夕陽が海と空を茜色に染め上げ、世界全体が壮大な音楽を奏でているかのようだ。 夏帆はベンチに座り、進路調査票の「第一希望」の欄に、ゆっくりとペンを走らせた。
『まだ、わからない。でも、私の音を探し続ける』
書き終えた瞬間、港から吹いてきた風が、彼女の短い髪を優しく揺らした。それは、これから始まる長い人生の、壮大で、美しいプレリュードのように聞こえた。 胸元で揺れる黒鍵のペンダントを握りしめ、夏帆は目を閉じる。遠い潮騒が、未来への祝福のように、いつまでも、いつまでも、優しく彼女を包み込んでいた。
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