26話 夕凪駅のディソナンス

白球が空気を裂き、ミットに吸い込まれる乾いた音がグラウンドに響く。橘健太はマウンドの上で、深く息を吸い込んだ。土の匂い、チームメイトの汗の匂い、そして遠くから運ばれてくる微かな潮の香り。それが彼の世界のすべてであり、揺るぎない日常のはずだった。だが、最近はその輪郭が奇妙にぼやけて見える。

「健太、集中しろ!」

キャッチャーからの鋭い声に、健太ははっと我に返る。無意識に帽子のつばをくいと下げ、ごまかすように首を振った。集中、しているつもりだった。だが、彼の思考の片隅には、いつもあの顔がちらついている。高槻夏帆。物心ついた時から隣にいた幼馴染の、最近見せるようになった、自分の知らない表情。

練習後、一人グラウンドに残ってグローブの手入れをしながら、健太は夕焼けに染まる校舎を見上げた。音楽室の窓から、微かにピアノの音と楽しげな歌声が漏れ聞こえてくる。あの場所に、夏帆はいる。プロを目指す親友の相沢莉子と、そして、東京から来たというミステリアスな転校生、天宮奏と。

『青のフーガ』。夏帆が最近、口癖のようにその名を呼ぶ曲。彼女がそれを語る時の瞳は、今まで見たことがないほど真剣で、きらきらと輝いていた。それは、健太がずっと焦がれてきた「本気」の輝きそのものだった。だが、その輝きが自分ではなく、音楽という未知の世界、そして天宮奏という男に向けられているという事実が、彼の胸をじりじりと焼いた。

ポケットの中で、夏帆が去年の大会前に作ってくれたお守りの硬い感触を確かめる。あれを渡してくれた時の彼女の笑顔と、今の彼女の笑顔は、何が違うというのだろう。答えの出ない問いに、健太は苛立ちまぎれに立ち上がった。汗で濡れたユニフォームが、やけに重く感じられる。気づけば、足は自然と彼女がよくいる場所へと向かっていた。

海が見える無人駅、夕凪駅。錆びついた鉄骨のホームと、潮風に晒された木製のベンチ。そこは、夏帆が物思いにふけるための聖域のような場所だった。 果たして、彼女はそこにいた。 だが、一人ではなかった。

ホームのベンチに、夏帆と莉子、そして奏が肩を寄せ合うように座り、一枚の楽譜を覗き込んでいる。夕陽が彼らの横顔を優美なシルエットとして浮かび上がらせ、その光景はまるで一枚の絵画のようだった。健太は、ホームへ続く階段の途中で足を止め、柱の陰からその光景を凝視した。

「ここのハーモニー、もっとこう、夜明け前の空みたいな、青と紫が混じりあう色にできないかな」 夏帆が、いつもの彼女らしくない詩的な表現で言う。その突飛なアイデアに、莉子が困ったように笑いながらも、楽譜にペンを走らせる。 「理論的には難しいけど…でも、面白いわね。夏帆のそういう感覚、嫌いじゃない」 すると、今まで黙って聞いていた奏が、すっと指を伸ばして楽譜の一点を指した。 「それなら、ここの和音は、そうじゃない。もっと…悲しい青の色だ。短七の和音を基調にして、そこに半音階的な経過音を潜ませれば、君の言う『夜明け前の空』の不安定な美しさに近づくかもしれない」 その的確な指摘に、夏帆と莉子が「なるほど」と声を揃えて感嘆する。三人の間に流れる空気は、完璧な和音のように調和していた。健太の知らない言葉が飛び交い、健太の知らない笑顔が咲いている。そこは、野球とソフトクリームと、くだらない冗談で構築された健太と夏帆の日常とは、あまりに隔絶された世界だった。

疎外感。その冷たい言葉が、健太の胸に突き刺さる。自分だけが、この輪の外にいる。彼らが共有しているのは、音楽という名の共通言語。自分には、それを解する術がない。 やがて莉子と奏が、「また明日」と手を振って帰って行った。ホームに一人残された夏帆は、満足そうな、それでいてどこか物憂げな表情で、水平線に沈みゆく太陽を見つめている。 今しかない。健太は固く拳を握りしめ、階段を上がった。

「夏帆」

声をかけると、彼女は驚いたように振り返り、次の瞬間、花が綻ぶように笑った。 「健太! どうしたの、まだ残ってたんだ」 「…お前こそ。もう暗くなるぞ」 「うん。ちょっとね、『青のフーガ』のアレンジがすごく進んで、嬉しくて」 そう言って、彼女は宝物のように楽譜を抱きしめる。その無邪気な姿が、健太の心の最後の堰を切った。

「お前、最近楽しそうだな」 その声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。夏帆の笑顔が、ぴたりと止まる。 「え…?」 「合唱部、そんなに楽しいのかよ。俺との約束すっぽかしてまで、打ち込むほどに」 先日の練習試合、応援に来ると言っていた夏帆は、結局現れなかった。 「あ…ごめん、あれは、その…」 「いいよ、別に。野球部の応援より、天才ピアニスト様と音楽談義してる方が、よっぽど有意義なんだろ」 健太の口から飛び出したのは、自分でも信じられないような、棘のある言葉だった。夏帆の瞳が、傷ついたように揺れる。 「なんで、そんな言い方するの…」 「じゃあ、どんな言い方すればいいんだよ!」 健太の声が、静かなホームに荒々しく響いた。 「俺はさ、ずっとお前の隣にいたつもりだった。ガキの頃からずっと。お前が何に悩んで、何に笑うか、全部知ってるつもりだった。でも、今の夏帆は知らない。あの天宮って奴と音楽の話をしてる時の顔、俺は見たことない。俺との時間、野球の応援に来てくれた時の笑顔、あれは全部、何だったんだよ? お前にとって、俺たちの〝当たり前〟は、音楽っていう新しいもんが見つかったら、簡単に捨てられるようなもんだったのか?」

それは、健太の心の奥底からの叫びだった。快活なムードメーカーの仮面を剥ぎ取った、剥き出しの嫉妬と寂しさ。夏帆は唇を噛みしめ、俯いたかと思うと、次の瞬間、強い光を宿した瞳で健太をまっすぐに見返した。

「違う! そんなことない! 健太は…健太はずっと特別だよ。当たり前すぎて、今まで気づかなかったくらい。でも、だからって、今の私を否定しないで!」 彼女の声は震えていたが、そこには確かな意志があった。 「私はずっと空っぽだった! 何にも本気になれなくて、健太や莉子が眩しくて、自分が嫌でたまらなかった。そんな時にやっと見つけたんだよ、自分の音を…『青のフーガ』を歌いたいっていう、初めての『本気』を! それが健太には、そんな風にしか見えないの? 私がやっと見つけた宝物を、そんな風に言わないで!」

ゴォォォッ、と地響きのような音を立てて、最終電車が二人の間を通り過ぎていく。巻き起こった激しい風が、夏帆のショートヘアと、健太のユニフォームの裾を乱暴に揺らした。二人の叫びは、轟音の中に虚しく吸い込まれていく。 やがて電車が去り、ホームには再び気まずい沈黙が降りた。夕陽は完全に姿を消し、残光だけが空を淡く染めている。 健太は、何も言えなかった。夏帆の言うことは、痛いほどわかる。だが、わかっているからこそ、苦しい。 彼は深く帽子のつばを目深にかぶり直し、夏帆に背を向けた。 「…悪かった」 それだけを吐き捨てて、ゆっくりと階段を下りていく。 「待って、健太!」 夏帆の悲痛な声が背中に届くが、健太は振り返ることができなかった。今振り返ってしまえば、もっと彼女を傷つける言葉を吐いてしまいそうだったから。 一人、ホームに取り残された夏帆の足元に、楽譜が一枚、風に煽られて落ちた。そこに書かれた無数の音符が、まるで泣いているように滲んで見える。

ザアァ…ザアァ…。 遠くから聞こえる潮騒の音が、今はただ、二人の心に生まれた不協和音のように、いつまでも、いつまでも響いていた。夏帆が守りたかった「当たり前の日常」に、最初の亀裂が入った、長い夏の日の夕暮れだった。

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