第5話 椅子の位置

ヴィオラ・クラインの家へ向かう道は、旧市街の外れで急に狭くなった。
石造りの家々が肩を寄せ合い、軒先から落ちた雨水が細い溝を流れている。霧は朝より薄くなっていたが、消えたわけではない。石畳の目地に溜まった水の上を這い、歩く者の足元だけを静かに隠していた。
朔は歩きながら、記録館で見た紙片のことを考えていた。
営業時間簿の空白。未来の日付の依頼票。押印の向き。帳簿の余白に残った、消された名前の最後の二文字。
ヴァイス。
その名前を知っているはずなのに、朔の記憶の中では輪郭がうまく結ばれなかった。声を聞いたことがある。工房の棚を直している背中を見たこともある。だが、顔を思い出そうとすると、そこだけ霧が濃くなる。
人の記憶は、紙よりも始末が悪い。
書き損じなら、線の重なりが残る。破られたなら、繊維が毛羽立つ。けれど人間の記憶は、消された場所ほど滑らかになる。何もなかったように、そこだけが自然な空白になる。
ヴィオラの家の前で、朔は一度足を止めた。
窓辺に飾られた乾いた花は、以前来たときと同じ向きだった。玄関の真鍮の取っ手も、曇り一つなく磨かれている。彼が手を伸ばすと、冷たい金属の感触が指先に伝わった。
扉を叩く前に、中で椅子を引く音がした。
続いて、時計のぜんまいを巻く音。
カチ、カチ、カチ。
三度目の音のあとで、止まった。
「立ったまま帰るつもりかい」
扉の向こうから、ヴィオラの声がした。
「まだ入っていません」
「入るつもりの人間は、もう半分入っているものだよ」
朔は扉を開けた。
居間には、いつもの椅子が窓際に置かれていた。背もたれの右側が少し沈み、座面の中央には長年の体重で浅い窪みができている。ヴィオラはその椅子に腰を下ろし、膝の上に黒いショールを掛けていた。テーブルには、縁の欠けたカップと、針の遅れた小さな置時計がある。
ただ、前に来たときと違うことが一つあった。
椅子の向きが、窓に対してわずかに斜めになっている。
朔はそれに気づいた。
ヴィオラは気づいたことに気づいたようだったが、何も言わず、向かいの椅子を指した。
「座りなさい。今日はずいぶん急いでいる顔をしている」
「急いでいるつもりはありません」
「つもりの話じゃないよ。足音がそう言っている」
朔は椅子に腰を下ろした。木の座面が、以前と同じ音を立てた。ヴィオラはその音を聞いてから、紅茶を注いだ。細い湯気が二人の間へ上がり、紙の匂いを持ち込むようにゆっくり消えた。
「記録館で、名前を見ました」
朔が言うと、ヴィオラはすぐには答えなかった。カップを両手で包み、紅茶の表面に浮く茶葉を眺めている。
「誰の名前を?」
「ザムエル・ヴァイス」
「そう」
「知っていますね」
「この町で、ヴァイスを知らない人は少ないよ。知らないと言う人は、もっと少ない」
「彼は、空白の日の前後に記録へ触れている。工房にも記録館にも出入りしていた。オットーは、失踪当夜に彼が荷車のそばにいたと言いました」
「オットーが、そんなに話したのかい」
「名前を出しただけです」
「それは、あの人にしては長い話だね」
ヴィオラは微笑んだ。だがその笑みは、朔を安心させるためのものではなかった。古い傷口の位置を確かめるような笑みだった。
「あなたは、ヴァイスが何をしたと思っているの」
「まだ何も断定していません」
「断定しない人間は、そんな目をしないよ」
「紙に、彼の名前が残っていた。消された跡もあった。未来日付の依頼票には、エルンストの署名がある。受付印は失踪の翌朝。工房の営業記録と税務記録も一致しない。これだけ揃っていて、何も考えないほうが難しい」
「考えるのは自由だよ。けれど、考えたことを記憶だと思い込んではいけない」
「あなたは、記憶と推測を分けられるんですか」
「分けようとしているだけさ。混ざってしまうからね」
ヴィオラは紅茶をひと口飲んだ。カップを置くとき、受け皿の上でほんの少しだけ位置をずらした。
朔の目がそこへ落ちた。
ヴィオラはいつも、カップを受け皿の欠けた箇所に合わせて置く。だが今は、欠けた部分から指一本分だけ離れていた。
「何かを動かしましたか」
「何を?」
「椅子とカップです」
「あなたは昔から、物の置き場所ばかり気にするね」
「置き場所には、置いた人間の都合が残る」
「都合ではなく、暮らしの癖かもしれない」
「癖なら、変わった理由がある」
ヴィオラはしばらく朔を見た。やがて、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
「この椅子はね、昔から窓に向けて置いていたんだよ。通りを見られるようにね。エルンストが来ると、私はこの椅子に座ったまま、工房の様子を窓から見ていた。あの人が店を閉める時間、誰が最後に入っていくか、荷車がどこで止まるか。そういうものを眺めていた」
「なぜ、今は向きが違うんです」
「窓から見えるものが変わったからさ」
「何が見えたんです」
「見えなくなったものがある」
朔は返事を待った。
ヴィオラは急かされてもいないのに、さらに長い間を置いた。沈黙は彼女のためにあるのではなく、相手の中で問いが形を変えるのを待っているようだった。
「空白の日の夜、工房の裏口に人がいた」
「誰ですか」
「最初は、エルンストだと思った」
「最初は?」
「背格好が似ていた。肩の丸まり方も、歩くときに右足を少し引く癖も。けれど、エルンストなら裏口の前で立ち止まることはない。あの人は、鍵を出す前に必ず一度、工房の中の音を聞く。誰かがいるか、時計が動いているか。あの夜の人間は、そうしなかった」
「ヴァイスだった?」
「暗かったから、顔までは見ていないよ」
「でも、歩き方は違った」
「歩き方だけでは人を決められない」
「それでも、あなたは見た」
「見たよ」
ヴィオラはそこでようやく、朔の目をまっすぐ見た。
「荷車の脇に立っていた。荷台には木箱が一つ。大きくはない。時計を何台も入れるような箱ではなく、ひとりで抱えられる程度の箱だった。箱の角には白い布が巻かれていた。雨よけにしては丁寧すぎる巻き方だった」
「中身は?」
「知らない」
「エルンストの時計では?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。私は箱の中を見ていない」
「その箱を、ヴァイスが運んだ?」
「そう見えた」
「見えた、ではなく?」
「あなたは、私に証言を書かせたいのかい」
ヴィオラの声が初めて硬くなった。
「なら、こう書けばいい。私は霧の夜に、顔の見えない男が、白布を巻いた木箱を運ぶのを見た。男の歩き方はエルンストに似ていたが、エルンストではなかったように思う。箱は工房の裏口から出て、塔の方角へ運ばれた。途中で鐘が一度鳴り、次の鐘が鳴るまでの間に、男も箱も見えなくなった。これで満足かい?」
「その間に、何がありました」
「鐘が鳴らなかった」
朔の指が止まった。
「次の鐘が?」
「一時間ごとに鳴るはずの鐘が、一度だけ鳴らなかった。だから私は時間を測れなかった。あの町では、鐘が時間を証明していた。鐘がなければ、夜はただ長いだけのものになる」
「それが、空白の日の始まりですか」
「始まりがどこだったのか、私には分からないよ。鐘が止まったから記憶がずれたのか、記憶をずらすために鐘を止めたのか。順番を知っているのは、機械を触った人間だけだろうね」
「オットーは、鐘を止めたと言いました」
「オットーは機械を止めた。時間を止めたわけじゃない」
「違いがあるんですか」
「あるさ。機械は止まっても、時間は止まらない。けれど人間は、時間が止まったように思いたがる。止まったと思えば、その間に起きたことを別の場所へ置けるからね」
朔は未来日付の依頼票を思い出した。
まだ来ていない日。
来ていないことにすることで、過ぎた出来事を未来へ送り返す紙。
「ヴァイスは、町の人間に何かを言って回ったんでしょうか」
「さあね」
「あなたにも?」
「私には、何も」
「本当に?」
ヴィオラはカップへ手を伸ばした。だが、口へ運ばず、取っ手を指で撫でた。
「あなたは、何でも問いの形にしすぎる。人は質問された順番に記憶を作り直してしまうんだよ。先に誰かの名前を聞けば、その人の顔を思い出した気になる。先に鐘の音を聞けば、その音が夜の中心だったと思い込む。先に犯人を置けば、あとから見たものまで犯人の形になる」
「では、何を信じればいいんです」
「信じるのではなく、残すんだよ」
「証拠を?」
「証拠だけじゃない。自分が分からないと思ったことも、見間違えたかもしれないことも、誰かの話を疑ったことも。全部を正しい形に整えようとするから、肝心な歪みが消える」
ヴィオラは身を乗り出した。黒いショールの端が膝から滑り落ちる。朔が拾おうとすると、彼女は手で制した。
「私が、あの日のことを全部話さないのは、町を守りたいからじゃない。そんな立派な理由ではないよ。私にも、怖かったことがある。誰かの名前を口にしたら、その人が消えると思った。エルンストが消えたあと、次に消えるのは自分かもしれないと思った。だから、見たものを小さくして、聞いたことを曖昧にして、椅子の向きまで変えた。窓から見える道を変えれば、あの夜の人影を思い出さずに済むと思ったんだ」
朔は黙っていた。

ヴィオラの声は震えていなかった。震えていないことが、かえって長く抱えられた恐怖の重さを伝えていた。
「あなたは、エルンストを慕っていたんですね」
「慕う?」
「工房へ通い続けた。壊れた時計を何度も持ち込んだ。修理代より、話す時間のほうが長かった」
「年寄りが壊れた時計を持ち込むのは、時計を直してほしいからだけじゃないよ。誰かに、まだ動かせるものがあると確認してほしいからだ」
ヴィオラは小さく笑った。
「エルンストは、それを知っていた。だから嫌な顔をしながら、最後まで時計を見てくれた。あの人は人間に不器用だったけれど、預かった時間を粗末にしなかった」
朔の胸の奥に、古い作業台の匂いが蘇った。
エルンストが、まだ見習いだった朔の手から工具を取り上げたこと。乱れた歯車を一つずつ並べ、何も説明せず、最後に錆びた小さな歯車を渡したこと。
――壊れたものを急いで捨てるな。
その言葉を、朔はずっと師匠の教えだと思っていた。だが今になって、それは時計の話だけではなかったのかもしれないと感じた。
「ヴィオラさん。エルンストは、あの夜、俺に何かを渡そうとしたんですか」
ヴィオラは視線を落とした。
「あなたは覚えていないのかい」
「覚えていないから聞いています」
「小さな包みを持っていた。布ではなく、紙だったと思う。あなたに差し出した。けれど、あなたは受け取らなかった」
「なぜ?」
「怖かったんだろうね」
「俺が?」
「ええ。エルンストが怖かったのか、包みの中身が怖かったのか、それとも自分がそれを受け取った後の時間が怖かったのか。そこまでは分からない」
「エルンストは、何と言ったんです」
ヴィオラはしばらく黙り、置時計へ目を向けた。止まった針は四時十七分を示している。
「『これを戻すな』と言った」
朔の中で、何かが反転した。
戻してはいけない。
戻すな。
言葉は似ている。だが、声の向きが違う。朔がエルンストへ向けた言葉ではなく、エルンストが朔へ託した言葉だった可能性がある。
「俺は、エルンストにそう言ったんじゃない」
「何を?」
「戻してはいけない、と。ヴィオラさんは、俺がそう言ったと……」
「ええ。あなたはそう言ったよ」
「でも、それは、エルンストが何かを戻そうとしたからかもしれない」
「あるいは、あなたが何かを戻そうとしたからかもしれない」
記憶の奥で、銀色の縁が揺れた。
濡れた袖。裏口の石段。エルンストの手の中にある紙包み。遠くで鳴るはずの鐘。その鐘が、なかなか鳴らない。
朔は胸元へ手を当てた。ないはずの懐中時計が、そこに重く沈んだように感じられた。
「裁縫箱の紙片を見せてください」
ヴィオラの目がわずかに細くなった。
「見つけたのかい」
「見せてもらえますか」
「あなたは、見せてもらう相手の言葉を聞かないね」
「紙片には工房の依頼票と同じ紙質が使われていた。端が切り取られている。依頼票の一部かもしれない」
「かもしれない、か」
ヴィオラは立ち上がらなかった。いつもの椅子に座ったまま、裁縫箱の方へ視線だけを向けた。
「紙片は、もうないよ」
「いつからです」
「今朝」
「誰かが持っていった?」
「私が移した」
「どこへ」
「別の場所へ」
「どこです」
「あなたは本当に、急いでいるね」
「エルンストの失踪に関わるものなら、急ぐ理由があります」
「急いで紙を動かせば、紙のほうが先に動いた理由を失う」
その言葉に、朔は息を呑んだ。
ヴィオラはゆっくりと手を伸ばし、椅子の右側にある木枠を撫でた。背もたれと座面の隙間に、薄い紙片が差し込まれている。彼女はそれを取り出さず、指先だけで位置を確かめた。
「この椅子は、昔から少し傾いている。右側に座ると、身体が窓の方へ流れる。だから私は、いつも左へ重心を置いていた」
「紙片を、椅子の中に?」
「しまったのではないよ。置いただけ」
「どう違うんです」
「しまうなら、取り出すつもりがある。置くというのは、そこにあることを忘れないためだ」
朔は椅子の隙間を見た。
「紙片を出してください」
「出したら、あなたは読んでしまう」
「読むために来ました」
「読んだあと、あなたが何をするかまでは決められない」
「決めるのは俺です」
「そう。だから怖いんだよ」
ヴィオラは初めて、疲れた顔を見せた。
「あなたは、エルンストに似ている。壊れたものを見ると、壊れた理由まで知ろうとする。けれど、理由を知った人間は、知らなかった頃の場所へ戻れない。戻れないことを、あなたはまだ軽く考えている」
「戻らなくていい」
朔は言った。
「戻れないなら、戻れないまま記録します。自分が何を見たか分からなくても、分からないことを残す。誰かが消したなら、消した跡を残す。町が壊れるとしても、壊れた理由まで消してしまえば、直すことすらできない」
ヴィオラは長いあいだ朔を見ていた。
やがて、背もたれに手を伸ばした。細い指が紙片の端に触れる。だが、引き抜く寸前で止まった。
「今は、まだ渡せない」
「なぜです」
「この紙は、あなたに渡すためにここにあるのではないからさ」
「では、誰に?」
「それを知るために、あなたは工房へ戻るんだろう」
ヴィオラは紙片から手を離した。
「保管室を見なさい。表の棚にないものは、裏へ押し込まれている。エルンストは何かを隠すとき、必ず別のものを先に整えた。誰かが来ても、隠した場所ではなく、整えられた場所に目が向くようにね」
「保管室に、銀縁の懐中時計がある?」
「時計は、物置に置かれるほど大きくないよ」
「では、何が」
「歯車。文字盤。修理途中のもの。持ち主が分からないまま残された部品」
ヴィオラはそこで微笑んだ。
「壊れたものは、持ち主より長く生きることがある」
朔は立ち上がった。ヴィオラの椅子が、わずかに軋んだ。
玄関へ向かう途中、彼は振り返った。いつもの椅子は窓に対して斜めを向いたままだった。窓の外には霧が流れ、通りの先の塔時計は輪郭だけを残している。
「ヴィオラさん」
「なあに」
「あなたは、あの夜にヴァイスを見たんですか」
ヴィオラはすぐには答えなかった。
「見たかもしれない。見ていないかもしれない」
「それでは証言になりません」
「いいえ。証言というのは、確かなことだけを並べるものではないよ。確かでないものを、確かでないまま渡す責任も含まれている」
「責任を、俺に渡すんですか」
「渡しているのではない。あなたが拾ったんだよ」
その言葉の後に、塔時計が鳴った。
一音目は深く、二音目は霧の向こうで遅れて響いた。ヴィオラはカップへ手を伸ばしたが、もう紅茶は冷めていた。
朔は外へ出た。
霧が頬に触れ、襟元へ冷たい水を流し込む。石畳に落ちた自分の影は、足元からぼやけていた。彼は歩き出しながら、ヴィオラの椅子の位置を思い返した。
窓から見える道を変えるために、椅子を斜めにした。
見たものを忘れるために。
だが、椅子の右側の隙間には、紙片が残っている。忘れるために動かした家具が、忘れないための証拠を抱えている。
朔は胸元へ手を当てた。
懐中時計はない。
それでも、止まった時刻の形だけが、身体の内側に残っている。
未来日付の修理依頼票は、誰かを待つための紙ではなかった。
何かを遅らせるための紙だった。
そして今、ヴィオラの椅子は、過去を見ないために置き直されていた。
朔は霧の向こうに浮かぶヴィーゼ工房へ向かった。歩くたび、石畳の水が靴底の下で小さく潰れる。背後では、ヴィオラの家の扉が閉じた。
その音は、誰かが記憶の蓋を閉める音に似ていた。
だが蓋の内側では、紙の繊維がまだ乾かずにいる。
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