第2話 椅子の位置

記録館を出ると、霧は朝よりも低くなっていた。

石畳の目地に溜まった水が、空の色を薄く映している。朔は封筒を内ポケットにしまい、歩きながら何度もその上から指を当てた。未来の日付の修理依頼票。エルンストの署名。失踪した翌朝の受付印。紙の上に並んだ三つの事実は、互いに同じ場所へ向かっているようで、肝心の一点だけを避けていた。

塔時計が鳴った。

鐘の音は、霧の層を押し分けるように旧市街へ届いた。建物の壁面にぶつかり、少し遅れて細い反響が返ってくる。朔は無意識に歩みを緩めた。記録館でマリーが示した空白の行と、鐘の音の間隔が頭の中で重なる。紙から消えた一日。止まった鐘。まだ来ていない日付。

どれも、時間そのものではなく、時間の並び方に関わっている。

ヴィオラ・クラインの家は、旧市街の外れにあった。かつて時計工房だった建物が軒を連ねる通りから一本入ったところで、窓辺には季節外れの乾いた花が飾られている。玄関扉の真鍮製の取っ手は何度も磨かれ、触れると指先に冷たい金属の感触が残った。

朔が二度目の鐘を聞きながら扉を叩くと、すぐには返事がなかった。

家の中から、何かを引きずるような音がした。続いて、時計のぜんまいを巻く小さな音。カチ、カチ、と一定の間隔で続き、それから止まった。

「開いているよ。押しておいで」

声は、昔と変わらなかった。

居間へ通されると、ヴィオラはいつもの椅子に座っていた。窓の脇に置かれた木椅子で、背もたれの右側だけが少し沈んでいる。彼女は来客のために席を立つことをしない。朔が子どもの頃から、ずっとそうだった。

テーブルの上には、縁の欠けた陶器のカップと、小さな置時計が並んでいた。置時計の針は四時十七分を指したまま、動いていない。文字盤のガラスに、窓の外の霧が白く映っている。

「座りなさいな。立ったままだと、話が急いでしまうから」

朔は向かいの椅子に腰を下ろした。木の座面がわずかに軋んだ。ヴィオラはその音を聞いて、昔と同じように微笑んだ。

「エルンストのところでも、あなたは立ったまま話を聞いていたね。あの人が何かを教えているとき、椅子を勧められても座らなかった」

「覚えていません」

「覚えていないことにしたのかもしれないね」

ヴィオラは紅茶をひと口飲んだ。湯気が彼女の顔の前でほどけ、すぐに消えた。

朔は封筒を取り出し、依頼票をテーブルの中央へ置いた。紙が木の表面に触れる音は、思ったより大きかった。

ヴィオラは手を伸ばさなかった。視線だけを紙に落とし、日付、品名、署名の順に追った。やがて目を細めたが、驚きの表情は浮かべなかった。

「銀縁の懐中時計」

「知っていますか」

「知っている、と言えば知っているし、知らない、と言えば知らない。時計というものは、持ち主の手から離れた途端に別の顔をするからね」

「エルンストは、失踪する前にその時計を持っていました」

「そうだったね」

「依頼票には、彼自身が受取人として署名している。しかも日付は、まだ来ていない」

「未来の日付を書く人は、未来を信じていると思うかい?」

朔は答えなかった。

ヴィオラはカップを両手で包み、冷めかけた紅茶の表面を見つめた。

「私はね、未来の日付を書いた紙を何枚も見てきたよ。結婚式の予約、葬儀場の取り置き、医者の診察券。人はまだ来ていない日を先に紙へ押さえつける。来るはずだと思いたいからだろうね。でも、この紙は違う」

「どう違うんです」

「待つための紙には見えない」

彼女は朔の顔を見た。

「何かを遅らせるための紙みたいだよ」

暖炉の奥で、燃え残った薪が小さく崩れた。朔は依頼票に目を戻した。未来の日付は、先の出来事を示しているのではない。何かをそこまで届かせないために、日付だけを先へ送った。そう考えると、紙の古さも、折り直された跡も、受付印の深さも、ひとつの並びに収まる気がした。

「エルンストは、何かを遅らせようとしていたんでしょうか」

「エルンストは、時間を遅らせるような男じゃないよ。時計が遅れれば、必ず直した。針が一分ずれていても、客が気づかなければそれでいい、とは言わなかった」

「では、誰が」

「さあね」

ヴィオラはそう言いながら、視線を窓へ移した。石畳の向こうで、霧が建物の角を舐めるように流れている。

「ただ、あの人は壊れたものを元の形に戻すのが修理だとは思っていなかった。壊れた理由を残したまま、もう一度動かす。それがあの人のやり方だった。だから、時計の中に何かを隠すときも、隠した痕まで消そうとはしなかったはずだよ」

朔の指が、無意識に封筒の端をなぞった。

「中に何かを隠したと、知っているんですか」

「知っているわけじゃない。見たわけでもない。聞いただけだよ」

「何を」

「金属が擦れる音」

ヴィオラはそこで黙った。紅茶をひと口飲み、カップを受け皿へ戻す。置く位置は、最初とまったく同じだった。

「失踪する前の晩、私は工房へ行った。いつもの椅子に座って、置時計を預けた。エルンストはろくに返事もしなかったよ。作業台の奥で、何かを開けたり閉めたりしていた。小さな金属音が何度も聞こえた。時計の裏蓋か、工具箱か、それとも棚の引き出しか。今となっては分からない」

「そのとき、エルンストは何か言いませんでしたか」

「言ったよ」

ヴィオラは視線を落とした。

「『戻してはいけない』と」

朔の胸の奥で、何かが軋んだ。

工房の暗い床板。油の匂い。作業台の上に置かれた銀色の縁。誰かの手が、彼の肩を押さえている。声はエルンストのものだったようにも、別の誰かのものだったようにも思える。戻してはいけない。何を。どこへ。

頭の奥に霧が入り込み、輪郭を薄くしていく。朔は胸元へ手を当てた。懐中時計はない。それでも、そこには長年触れていた物の重みだけが残っている。

ヴィオラはその仕草を見ていた。

「あなたも、あの夜に何か聞いたね」

「何も」

「そういう返し方をするところは、エルンストに似てきた」

「俺は、あの夜のことを覚えていません」

「覚えていないことと、何もなかったことは違うよ」

老女の声は柔らかかった。その柔らかさが、朔にはかえって逃げ場をなくすものに感じられた。

「町を出る前、あなたは工房の前で立ち尽くしていた。雨も降っていないのに、服の裾が濡れていた。エルンストが裏口から出てきて、あなたに何かを渡そうとしていた。でも、あなたは受け取らなかった」

朔は顔を上げた。

「何を渡そうとしたんです」

「小さなものだった。歯車か、鍵か、紙片か。私のいた場所からは見えなかった。あなたはそれを見て、ひどく怯えた顔をした。それからエルンストに向かって、こう言った」

ヴィオラは言葉を止めた。昔話の結末をぼかすときの、あの間だった。

「『戻してはいけない』と」

部屋の空気が冷えた。

朔は否定しようとした。そんな言葉を、自分が口にするはずがない。だが否定するための記憶がなかった。喉の奥に残る感触だけが、言葉より先にその事実を認めていた。

「俺は……何を見たんですか」

「そこまでは知らないよ」

「知らないんじゃなくて、言わないだけでしょう」

声がわずかに強くなった。ヴィオラは怒らなかった。カップの縁に指を置き、欠けた部分を親指で撫でた。

「知っていることを全部言うのが、いつでも正しいわけではない。若い人は、真実を一枚の紙のように考えがちだね。広げれば全体が見える、裏返せば裏側も分かる。けれど記憶は紙ではない。触れた場所から裂けていくこともある」

「だから、町の人間は黙っているんですか」

「町のため、と言えば聞こえはいい。でもね、黙っている人間の多くは、町を守っているんじゃない。自分がもう一度あの日を思い出さずに済むよう、沈黙を守っているだけだよ」

その言葉は、朔の胸にゆっくり沈んだ。

「それでも、誰かが記録を消した」

「ええ」

ヴィオラは初めて、はっきりとうなずいた。

「記憶は勝手に薄れる。でも紙の空白は、誰かが作らなければ生まれない。そこを一緒にしてはいけないよ。忘れることには、時に仕方のない事情がある。けれど消すことには、必ず手がある。手があるなら、その指の跡を探さなくてはいけない」

朔は依頼票を見下ろした。未来の日付。浅い署名。深く沈んだ受付印。紙の繊維に残る折り目。

「この紙は、誰かの指の跡なんですね」

「そうだね。だけど、指紋のように分かりやすいものじゃない。人は紙に触れるとき、持ち方より先に順番を変える。日付を先に書くのか、名前を先に書くのか。印を押してから折るのか、折ってから押すのか。その人が時間をどう扱うかは、手つきに出る」

ヴィオラはそう言って、依頼票を一度だけ指で叩いた。

「エルンストは、依頼票の日付を指でなぞってから話す人だった。書かれた日付を、まず自分の中へ入れるためにね。けれど、この紙を書いた人は違う。日付を見ていない。日付を置いている」

「どうして分かるんです」

「紙が、待っていないからさ」

意味の分からない言葉だった。けれど朔には、その言い方の中に、マリーとは別の確かさがあるように思えた。紙を物としてではなく、人が触れた時間の残骸として見ている確かさだった。

帰り際、朔は居間の隅に置かれた裁縫箱へ目を向けた。蓋の隙間から、薄い紙片がのぞいている。見覚えのある灰色の紙。工房の依頼票に使われていたものと同じ紙質だった。

ヴィオラは気づいていた。朔の視線がそこへ向いたことも、その紙片を見たことも。

それでも彼女は何も言わなかった。

朔が立ち上がると、椅子の脚が床を擦った。ヴィオラはいつもの椅子から動かず、背もたれに身体を預けた。窓の外で霧が深くなり、通りの向こうにある塔時計の輪郭が消えかけている。

「ヴィオラさん」

「なあに」

「忘れるのは、悪いことじゃないと言いましたね」

「ええ」

「でも、忘れたまま隠しておくと、紙のほうが先に思い出す、とも」

「そう言ったね」

「紙が思い出したら、何をすればいいんです」

ヴィオラはすぐには答えなかった。カップを口元へ運び、冷めた紅茶を飲む。置時計の止まった針が、四時十七分のところで沈黙している。

「その紙を、なかったことにしないことだよ」

それだけを言って、彼女は目を伏せた。

玄関へ向かう途中、朔は裁縫箱の中の紙片をもう一度見た。端が一箇所だけ切り取られている。依頼票の一部かもしれない。だが、どの部分が欠けているのかまでは分からなかった。

外へ出ると、霧が頬に触れた。冷たい水滴が肌の上でほどけ、襟元へ流れ込む。石畳は先ほどより暗く、靴音が吸い込まれていく。

塔時計が鳴った。

一度、二度。鐘は町の上を渡り、空白を縫うように遠ざかった。

朔は歩きながら、胸元へ手を当てた。そこに時計はない。けれど、ないものの形だけは残っている。ヴィオラの言葉と、紙の端に残った切断面が、頭の中で重なっていた。

未来日付の依頼票は、誰かを待っているのではない。

何かを、待たせている。

朔は足を止め、霧の向こうにぼんやり浮かぶヴィーゼ工房の屋根を見た。工房の裏には、まだ整理していない小さな保管室がある。そこには、表の棚へ出されなかった部品や、修理途中の文字盤が残されているはずだった。

紙が先に思い出したのなら、次に思い出すのは、紙の置かれていた場所かもしれない。

朔は工房へ戻る道を選んだ。背後で、ヴィオラの家の扉が静かに閉まる音がした。

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