第10話 旧資料室の箱

翌朝、桜井真琴は約束どおり、三枝カメラ店の前に車を止めた。

白い車体には細かな泥が跳ねていた。駅から旧資料室までは歩いても行ける距離だが、彼女は車を降りると、鍵を指先で確かめた。細い銀色の鍵。その動作だけが、昨夜の言葉をまだ撤回できるかどうか迷っているように見えた。

透子は店の戸締まりを終え、父のメモ帳を鞄へ入れた。私は複写した現場図と、合図灯の写真を別々の封筒に分けて持った。原本を同じ場所へまとめると、何かあったときに全部が失われる。

「資料室へ入る前に、ひとつ確認しておきたいことがあります」

桜井が言った。

「何ですか」

「見つかったものを、すぐに結論へ結びつけないでください」

「結論を急いでいるように見えますか」

「いいえ。あなたは急がない。ただ、見つけたものを捨てない」

桜井は薄く笑った。

「それが、ときどき組織には厄介です」

「組織にとって厄介なものが、事実とは限りません」

「事実だから厄介なのです」

駅舎の裏手に回ると、観光客の姿は途切れた。古い倉庫と変電設備の間に、鉄製の扉がある。扉の上には、かつて掲げられていた案内板の跡だけが残っていた。白い四角形の中に、雨だれの筋が黒く伸びている。

桜井が鍵を差し込んだ。

回すと、内部で重い金属が外れる音がした。

扉を開けた瞬間、乾いた紙と黴の匂いが流れてきた。電気は点いたが、蛍光灯の一本は端から明滅している。棚には段ボール箱が並び、年度と部署名が油性ペンで記されていた。事故から数年分の資料だけが、別の箱より新しい紙で補修されている。

「整理されているように見えます」

透子が言った。

「事故後に一度、資料の統合をしました」

「統合ではなく、移し替えた」

私が箱の縁を見ながら言うと、桜井は黙った。

箱の底には、古いラベルを剥がした跡がある。紙の繊維が縦に裂け、下に残った文字の一部が浮いていた。

保守…… 七月…… 臨時……

私は手帳を開いた。

「この箱は、もともと保守関係の資料だった」

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「私は当時の担当者ではありません。引き継いだときには、すでに箱の分類が変わっていました」

桜井は棚の奥へ進み、ひとつの箱を取り出した。蓋には新しい紙が貼られ、《事故対応・広報資料》と書かれている。だが側面の隙間から、古い青いファイルの端が覗いていた。

蓋を外すと、最初に新聞社への配布資料が出てきた。次に会見用の想定問答。最後に、茶色く変色した封筒が何通か重なっている。

その一番下に、黒い布で包まれたものがあった。

透子が布を解いた。

写真だった。

現場の合図灯。事故翌朝の線路。破損した車両。どれも見覚えのある構図だったが、新聞に掲載された写真より広い範囲が写っている。線路脇の砂利、ホーム端、駅舎の壁。その隅々に、事故後の人間の動きが残っていた。

私は一枚を裏返した。

《七月十五日 午前五時二十分 保守確認前》

撮影者の名前はない。

透子が写真の表面を見つめた。

「この写真、父のものではありません」

「分かりますか」

「紙が違います。父は事故後の現場で、こんなに浅い焦点は使わない。それに、右下の焼き込みがない」

「では、誰が撮ったんでしょう」

桜井が答えた。

「会社の保守担当です」

「名前は?」

「資料には残っていません」

その言い方は、名前が存在しないのではなく、書かれた場所を知っている人間のものだった。

私は写真を光にかざした。合図灯の足元に、白い線が写っている。石灰で引かれた線だ。灯器から線路の外側へ向かい、途中で途切れている。事故後、何かを測るために引かれたものだろう。

「この線は、何ですか」

「保守範囲の印です」

「なぜ消されたんですか」

桜井は写真から目を逸らした。

「消されたのではありません。別の写真では、写っていないだけです」

「この写真が配布されなかった理由は?」

「現場の立入範囲が、報告書と一致しなかったからです」

「どう違ったんですか」

桜井は返事をしなかった。

透子が別の写真を一枚取り上げた。そこには、合図灯の脇に置かれた木箱と、濡れた作業手袋が写っている。事故直後の現場にしては、誰かが作業を終えたあとに見えた。

「事故が起きる前から、ここで保守作業をしていた?」

「その可能性はあります」

「可能性ではなく、手袋がある」

透子の声は低かった。

「誰かがここにいた。合図灯を触り、線路へ入った。事故のあとに慌てて片づけた。でも、写真に残った」

桜井は箱の中から、折り畳まれた一枚の紙を取り出した。紙の中央には、赤い判子で《確認済》と押されている。日付は事故の前日だった。

臨時保守作業。 側線分岐部、固定金具の交換。 作業終了予定 二十二時三十分。 責任者 保線主任・倉持。

私はその名前を手帳に書いた。

「倉持は、事故当日に線路脇にいた人物ですか」

「断定できません」

「しかし、合図灯を扱える」

「保守責任者でしたから」

「事故前日の作業が終わっていなかった。そこへ列車が入った」

桜井は紙の端を押さえた。

「作業は、終了したことになっていました」

「ことになっていた?」

「翌朝の確認印がないのです」

透子が顔を上げた。

「確認しないまま、列車を走らせた」

「運行は、通常どおり再開されました」

「通常どおりではなかった」

私は、現場写真の白い線を指した。

「合図灯が本来と違う向きだった。作業範囲が残っていた。列車は手前で止まった。誰かが危険を見て、合図を出した」

「そして、放送を切った」

透子が続けた。

「停車を記録に入れなかった。だから事故が起きたあと、運転士の減速だけが残った」

桜井は目を閉じた。否定するには、箱の中身が多すぎた。

「倉持さんは、今どこにいますか」

「亡くなっています」

「いつ?」

「事故の三年後です」

「事故のことを証言した記録は?」

桜井は、箱の底から小さな録音テープを取り出した。

ラベルには、手書きで《倉持・聞き取り》とある。日付は事故の翌日。録音時間は十二分。

「これは、広報資料ではありません」

「誰が録音したんですか」

「当時の会社側の記録担当です。私は昨日まで、存在を忘れていました」

「忘れていたのではなく、見ないようにしていた」

桜井の指がテープの端に触れた。

「そうかもしれません」

資料室の隅に、古い再生機が置かれていた。電源を入れると、内部のモーターが低く唸った。テープを入れ、再生ボタンを押す。

最初に聞こえたのは、紙をめくる音だった。

次に、男の咳。

《質問を始めます。七月十四日、桜橋駅側線付近で行った作業について》

しばらく沈黙が続いた。

《作業は終わっています》

男の声は乾いていた。

《確認者は?》

《確認者は、必要ありません》

《なぜですか》

《合図灯が出ていた。列車は止まった。問題は起きていない》

私は透子と顔を見合わせた。

録音の向こうで、椅子が軋んだ。

《問題は起きていない、とは?》

《止まっただけです》

《その後、列車は?》

《動いた》

《あなたは、線路脇にいましたか》

男の呼吸が乱れた。

《見ていた》

《何を見ていたんですか》

長い沈黙。

《灯りが、消えた》

再生機から、テープの回る音だけが流れた。

《誰が消したんですか》

そこで録音が途切れた。

桜井が停止ボタンを押した。

「ここから先はありません」

「テープが切れた?」

「切られています。録音機の故障ではありません」

私はテープの端を見た。切断面は斜めで、古い磁気テープがわずかに毛羽立っている。切ったあと、再びケースへ戻された形跡があった。

「誰かが、ここだけを切り取った」

「はい」

桜井は答えた。

「そして、残った部分だけを資料として保存した」

透子は、録音機の横に置かれた封筒を見つけた。中には小さな紙片が一枚入っている。父の字ではない。だが、事故当日の現場図にあった文字と同じ筆圧だった。

《灯りを消した者は、列車を止めた者を知っている》

私は紙片を手帳に挟んだ。

箱の中には、まだ空白が残っていた。録音の切断された先、確認印のない作業報告、名前だけが残った保線主任。三枝のネガに写った影は、倉持なのか。それとも、倉持の名を利用して別の誰かが線路へ入ったのか。

桜井は箱の蓋を閉じなかった。

「これを、公開するつもりですか」

「まず、黒田さんと岸本さんに見せます」

「私にも、立ち会わせてください」

「逃げないためですか」

「逃げた記録を、最後まで見るためです」

透子が写真を封筒へ戻した。

「父は、ここまで知っていたんでしょうか」

私は録音機を見た。

「少なくとも、同じ順番を追っていたはずです。合図灯。停車。録音。切断された証言」

資料室の外で、列車の警笛が鳴った。古い壁がわずかに震え、棚の上の紙片が一枚、床へ落ちた。

拾い上げると、裏面に赤鉛筆で時刻が記されていた。

午前五時二十分。 確認なし。 運行再開。

私はその三行を見つめた。

「この時刻は、事故が起きる前です」

桜井が言った。

「ええ」

「では、事故後に作られた報告ではない」

「事故前の記録です」

透子の声が、暗い資料室の中で細く響いた。

「事故は、起きる前から記録されていた」

誰も、その言葉を訂正しなかった。

棚の奥で、古い箱の紙がゆっくり沈んだ。蓋の隙間から、まだ何かが覗いている。私は手を伸ばしたが、すぐには取らなかった。

見つけたものを、順番を崩さずに並べる。

それが、今の私たちにできる唯一の手順だった。

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