第10話 受け取られなかった封筒

翌朝、白石から電話が来た。
「封筒が、なくなった」
声は低かった。いつもの落ち着きが崩れているわけではない。ただ、言葉と言葉の間に、紙一枚ぶんの空白があった。
「引き出しから?」
「ええ。鍵はかけていない。でも、店の中から持ち出された」
「いつ気づいた」
「開店前。仕入れ帳は残っている。封筒だけがない」
私は返事をせず、窓の外を見た。雨は上がっていたが、街路樹の葉先から雫が落ち続けている。落ちるたび、舗道に小さな円がひらき、すぐに消えた。
「理沙さんへ渡った可能性は」
「ない。渡すなら、私が手渡す」
「誰かが先に渡した」
「そうかもしれない」
「白石」
「断定はしていない」
昨日、高瀬が言った言葉を思い出した。記録は持つ人間の手の形に合わせて変わる。封筒も同じだった。誰かの手に渡った瞬間、それはただの紙ではなくなる。受け取った理由を、その人間の側へ引き寄せる。
「店の中に、何か残っている?」
「棚の下に、濡れた跡がある」
「雨の日の靴跡?」
「違う。紙包みを置いた跡。包みの底だけが湿っている」
「持ち出した人間は、濡れた場所から来た」
「あるいは、濡れた場所へ持っていった」
電話が切れた。
私は上着を取り、月舟堂へ向かった。
店の戸は半分開いていた。白石は帳場の前に立ち、引き出しを開けたままにしている。中には仕入れ帳と、封筒を包んでいた紙の切れ端が残されていた。紙の端はきれいに裂かれている。急いだ形跡がない。
「鍵をかけなかったのは、あなたの判断?」
「老女に言われたから」
「渡すべき時は、誰かが引き受けた時に来る」
「その言葉を信じたわけではない。ただ、鍵をかけると、保管しているというより閉じ込めている気がした」
「結果として、持ち出された」
「ええ」
白石は紙の切れ端を持ち上げた。指先に、黒い汚れがついている。
「煤?」
「倉庫街の鉄扉に触れたときにつく粉に似ている」
「犯人は倉庫街から来た」
「犯人と決めるのは早い」
「では、持ち出した人間」
白石は汚れを布で拭った。拭い取るのではなく、布の別の面へ移すように、ゆっくりと。
「昨夜、閉店後に裏口の錠が一度だけ動いている。音を聞いた気がしたけれど、見に行かなかった」
「なぜ」
「店の外に、立っている人影があったから」
「見たのか」
「見ないようにした」
私は白石を見た。彼女は目を逸らさなかった。
「何時?」
「十時四十七分」
「どうして覚えている」
「帳簿を閉じた時間だから」
「顔は」
「見ていない。傘を差していた。靴だけが濡れていた」
「男?」
「歩き方は男に見えた」
「顔を見ていないのに、歩き方で決めるな」
「決めていない。そう見えただけ」
白石は帳簿を開いた。最後の記入の下に、時刻が細い字で残っている。十時四十七分。その右側に、いつもの筆跡ではない小さな線が引かれていた。
「この線は?」
「今朝、見つけた」
線は数字の下から始まり、帳簿の端へ向かって伸びている。途中で一度だけ折れ、裏表紙の角で止まっていた。
「久瀬の癖に似ている」
「似ているけれど、違う」
私は拡大鏡を借り、線を覗いた。鉛筆の芯ではない。薄い青のインクだった。手帳の最後の一文と同じ色に見える。
「この線は、何かを示している」
「棚の番号?」
「違う。方向だ」
線の折れ方を紙の上で写し取ると、倉庫街の区画図にある古い搬入口の角度と重なった。北側三番倉庫の裏手。高瀬の記録にあった、内側から開いた扉の先。
「封筒は、そこへ持っていかれた」
「理沙さんのところではなく?」
「誰かが理沙さんへ渡す前に、別の場所へ運んだ」
「なぜ」
「中身を読んだか、読まなかったかを確認するため」
白石は紙の切れ端を帳簿へ戻した。
「行くの?」
「行く」
「私も」
「店は」
「封筒を持ち出された店を、ひとりで閉めておけない」
反論はできなかった。
倉庫街へ向かう途中、再開発組合の仮事務所の前を通った。ガラス張りの窓の内側で、塚原耕介が電話をしていた。私たちに気づくと、彼は通話を終え、入口へ出てきた。
「お二人とも、朝からお揃いで」
「封筒を返してもらいます」
塚原は驚かなかった。驚かないことが、答えになる場合がある。
「何のことでしょう」
「久瀬理沙さん宛ての封筒です」
「私が持っていると?」
「あなたの組合は倉庫街の鍵を管理している」
「管理しているのは土地です。人の手紙ではありません」
「では、昨夜十時四十七分、月舟堂の裏口へ誰を行かせた」
塚原は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。表情を整えるための動作に見えた。
「佐伯さん。あなたは、証拠がないときほど言葉を強くする」
「あなたは、証拠があるときほど言葉を柔らかくする」
「それはお互い様では?」
「封筒を返せ」
白石が言った。
塚原の視線が、彼女の手元へ落ちた。そこには何もない。だが彼女は、封筒を持っていたときと同じように両手を揃えている。
「白石さん。店を守りたいなら、記録の持ち主を選ぶべきです」
「持ち主ではありません」
「では、何です」
「預かる人間です」
「預かる人間は、渡す相手を間違えると責任を負う」
「責任を避けるために、渡す相手をあなたへ変えるつもりですか」
塚原の笑みが、わずかに薄くなった。
「街を守るには、順番が必要です。すべてを同じ日に明らかにすれば、暮らしが壊れる」
「その順番を、あなたが決めてきた」
「誰かが決めなければ、混乱する」
「混乱させたのは記録ではない。記録を隠した人間です」
塚原はしばらく黙った。背後の事務所では、コピー機が一度だけ作動した。紙が吐き出される音が、妙に大きく響いた。
「倉庫街へ行くなら、せめて立入許可を取ってください。事故が起きれば、私は責任を負えません」
「五年前も、そう言った?」
塚原の指が、机の上の書類の角を揃えた。
「五年前のことを、私は知りません」
その言葉を聞いたとき、私は彼の靴を見た。右足の踵だけが、外側から減っている。
昨夜、月舟堂の前に立っていた人影と同じ歩き方だった。
私は何も言わず、白石と歩き出した。
背中に、塚原の声が追ってきた。
「佐伯さん。記録は、戻す場所を間違えると人を傷つけます」
私は振り返らなかった。
倉庫街の北側三番倉庫は、鉄扉の塗装が剥げ、下から赤錆が浮いていた。鍵は掛かっていない。白石が扉へ触れる前に、私は手を伸ばした。
内側から開かれた跡があった。
床の埃に、濡れた靴跡が二つ。ひとつは右足の踵が外へ流れている。もうひとつは、細い靴底だった。
扉の脇に、白い紙片が落ちていた。
拾い上げると、封筒の内側に使われる薄い紙だった。そこへ、久瀬の字に似た筆跡で、短く書かれている。
――理沙には、まだ渡すな。
白石が息を止めた。
私は紙片を裏返した。
裏には、別の筆跡で一行だけあった。
――今度は、誰が棚へ戻すのか。
倉庫の奥で、何かが落ちた。
乾いた音だった。紙ではなく、金属の音。
私たちは同時に顔を上げた。薄暗い通路の先に、開いたままの内扉がある。その向こうから、湿った空気が流れてきた。
私は一歩、踏み出した。
白石が袖をつかんだ。
「佐伯。順番を間違えないで」
「何の順番だ」
「見る順番。読む順番。戻す順番」
彼女の指が、私の腕に食い込んでいた。
奥の暗がりで、誰かが息をした。
次の瞬間、鉄扉が外側から閉まった。
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