第10話 ほどけた端を押さえる

新しい平刷毛を、洗い水へ浸した。

毛先から青がほどけていく。透明だった水が、ゆっくりと曇る。僕はその変化を見届けてから、刷毛を雑巾へ押し当てた。余分な水が布へ移り、湿った音がした。

隣の椅子は空いている。

佐伯先生が帰ってから、階段の踊り場は前より広く感じられた。人が一人いなくなっただけなのに、窓の外から入ってくる冷たい空気まで増えたようだった。

僕は旗へ向き直った。

蒼炎の先端は、さっきより少しだけ形になっている。けれど、近づけば細かな乱れが見えた。青の重なり。布目に沿わずに跳ねた線。養生テープの曲がった端。

直せる。

そう思った。

直せるから、触らなければならない。

僕は刷毛の先に絵の具を含ませ、乱れた箇所へ置いた。ほんの少しだけ、線の外側を削るつもりだった。けれど、毛先が布へ触れた瞬間、乾きかけた青が引かれ、細い筋になって伸びた。

「……違う」

声が漏れた。

すぐに雑巾を取る。拭いてはいけない。分かっているのに、手が先に動いた。雑巾の端が青に触れ、線はさらに広がった。

僕は息を止めた。

階段の下で、誰かが扉を開ける音がした。続いて、早い足音が上がってくる。僕は雑巾を握ったまま、旗から手を離せなかった。

「何してる」

黒木だった。

片手に進行表、もう片方に体育館の鍵を持っている。踊り場へ上がるなり、僕の手元と旗を交互に見た。

「触るな」

「わかってる」

「わかってるやつの手じゃない」

「今、止めようとして」

「止めるなら、最初から触らない」

言葉が鋭く落ちた。

僕は雑巾を机の端へ置いた。青く汚れた布が、旗の脇で小さく丸まる。

黒木は進行表を開いた。紙の角には、何度も折り直した跡がある。

「あと一時間で校舎を閉める。体育館の鍵を返す。旗は今夜中に乾かす必要がある」

「わかってる」

「なら、細部は捨てろ」

「捨てられない」

「捨てないと終わらない」

黒木は旗を見上げた。

「遠くから見える炎の形は戻ってる。明日の朝、誰も近くまで寄って確認しない。残ったにじみは、そのままでいい」

「それは、失敗を残すってことだろ」

「残るよ」

黒木は迷わず答えた。

「残るけど、体育祭も残る。旗が使える状態で朝を迎えるほうが優先だ」

「僕にはできない」

「できないんじゃなくて、やらないだけだ」

胸の奥が熱くなった。

「お前は、何でも時間で切ればいいと思ってる」

「切らないと、全員が巻き込まれる」

「巻き込まれたくないなら、最初から僕にやらせなければよかっただろ」

言ってしまったあと、踊り場の空気が固まった。

黒木の指が、進行表の端で止まった。

「やらせた覚えはない」

「でも、誰もやらなかった」

「お前が先に持っていった」

「持っていくしかなかった」

「そうやって、いつも一人で決める」

黒木の声は大きくなかった。だから余計に、逃げられなかった。

「一人で決めて、一人で抱えて、一人で遅れてる。なのに、最後だけ全員の問題にするな」

僕は言い返せなかった。

黒木は視線を旗へ戻した。

「俺は、きれいにしたくないわけじゃない」

「……」

「遠くから見て形が残るならいいと思ってる。明日の朝、みんながこの旗の下に並べるなら、それでいい。お前が納得するかどうかは、今の優先順位じゃない」

正しい。

その正しさが、僕の中へ冷たい刃物のように入ってきた。

「じゃあ、僕が納得しなくても出すのか」

「出す」

「僕が失敗したままでも」

「失敗したままじゃない。直した跡がある状態で出す」

黒木はそこで一度、言葉を止めた。

「それが嫌なら、直す場所を決めろ。全部じゃなくていい。どこを残して、どこを直すか。決められないなら、俺が決める」

「勝手にするな」

「勝手にしてるのは、お前のほうだ」

黒木の手から、進行表がわずかに揺れた。

そのとき、階段の下から美咲の声がした。

「黒木、いたんだ」

美咲が上がってくる。さっきの紙袋を抱えたまま、片方の手には僕の水筒があった。僕が美術室へ置き忘れたものだ。

「これ。水筒、机にあったから」

「置いといて」

僕は言った。

「自分で取りに行けばいいだろ」

黒木が言う。

「今、手が離せない」

「手を離せないんじゃなくて、離さないだけだ」

また同じ言葉だった。

美咲は僕と黒木を見比べ、紙袋を床へ置いた。

「喧嘩するなら、旗から離れて」

「喧嘩じゃない」

黒木が答える。

「なら、なおさら声を下げて。ここ、階段だから響く」

美咲はそう言って、僕の足元にしゃがんだ。床に落ちていた養生テープの端を拾い、指先で丸める。佐伯先生が置いた場所へ、同じように並べた。

「どこ、触ったの」

「先端」

「広がった?」

「少し」

「少しって、どれくらい」

「見ればわかる」

美咲は旗を見た。青い筋が、炎の先から細く外へ伸びている。

「これなら、白で消すより、青を足したほうがいいかも」

「駄目だ。厚くなる」

僕が言うと、美咲はすぐに反論しなかった。

「じゃあ、どうする?」

「乾くまで待つ」

「待ったら、時間が足りない」

「わかってる」

「わかってるだけじゃなくて、決めないと」

その言葉を、美咲の口から聞くとは思わなかった。

明るく笑って、何かを持ってきて、手伝うと言うだけの美咲ではなかった。紙袋の持ち手を握ったまま、彼女は旗を見ている。僕の失敗ではなく、明日のために必要な場所を見ている。

「私、白を作れるよ」

美咲が言った。

「でも、塗らなくていい。白を出して、乾くまで待つ。黒木は体育館の設置を進めて。私はテープを切る。君は、触る場所を決めて」

「僕が?」

「君が一番見えるから」

頼ることを、まだ手順としては知らない。

けれど、三人分の手が、もう踊り場にあった。

僕は旗の先端を見た。すぐ隣には、誰も座っていない椅子がある。座面の擦り傷に、白い蛍光灯が細く光っていた。

「……ここは残す」

僕は青い筋の一部を指した。

「このにじみは、これ以上触らない。外へ出た線だけ、乾いてから整える」

黒木が進行表へ書き込む。

「五分待つ。美咲、白。俺は体育館。五分後に戻る」

「五分で戻れる?」

「戻す」

黒木は階段を下りかけ、振り返った。

「それから、明日の朝の搬入は四人でやる。お前一人で持つな」

返事をする前に、黒木は消えた。

美咲が水筒を僕の隣へ置く。キャップを開けず、そのままにした。

「飲めるときに飲んで」

僕は頷いた。

旗の外へ伸びた青い線を見ながら、乾くのを待つ。刷毛を握っていない手が、落ち着かず膝の上を動いた。

隣の空いた椅子は、何も言わない。

それでも、そこにあることで、僕が次の一手を一人で決めなくていいような気がした。

← 横にスクロールして読み進められます