第1話 今日の日付の切符

霧見町役場の庁舎を出たとき、海から湿った風が吹き込んできた。

風は冷たくなかった。けれど、シャツの襟や袖口に入り込み、皮膚の上に薄い膜をつくるような湿り気があった。空はまだ明るいのに、海の方角だけが白く霞んでいる。遠くで、見えない船の汽笛が一度鳴った。

「駅までは、この道をまっすぐです。旧道に入れば看板が出ていますから」

役場の庶務課で私を案内した男は、そこまで言って、手にした書類を閉じた。説明の最後に、何か付け加えるか迷っているようだった。

「旧北岬駅の鍵は、現地の榊原さんが持っています。今日はもう戻っていると思いますが……いなければ、駅舎の横にある管理箱を確認してください」

「切符売り場の電気は、常時ついているんですね」

私が聞くと、男は一度だけ海の方を見た。

「保存対象ですから。保守点検のために、最低限の電源だけ残してあります」

「駅は十年前に廃止されていますよね」

「ええ。ですから、切符はもう売っていません」

その返事は、私の質問に答えているようで、少しだけずれていた。

私は黒いメモ帳を開き、役場から渡された腕章の内側に記された日付を書き留めた。今日の日付。臨時記録係としての勤務開始日。旧北岬駅保存調査、初日。

男は私の手元を見て、苦笑した。

「そこまで細かく書かなくても、報告書は一枚で足りますよ」

「報告書に必要かどうかは、あとで決めます」

私がそう答えると、男はそれ以上何も言わなかった。

旧道は、町の中心から海へ下っていた。両側には低い家が並び、軒先に干物を吊るした店や、色褪せた看板を出した文具店があった。商店街と呼ぶには、店と店の間が空きすぎている。閉じたシャッターの前に植木鉢だけが残され、誰もいない店先で風鈴が鳴っていた。

道の先に、駅舎の屋根が見えた。

旧北岬駅は、海と町の間に挟まるように建っていた。駅名板の青は剥げ、文字の白さだけが妙に残っている。線路は途中から草に埋もれていたが、ホームの縁だけは崩れずに続いていた。列車が来なくなって十年経つ場所にしては、掃除がされている。埃はある。錆もある。それでも、誰かが定期的に人の通る幅だけを残していた。

駅舎の正面扉には鍵がかかっていなかった。

押すと、湿った木材が内側で軋んだ。潮の匂いに、古い紙と油の匂いが混じっている。構内は薄暗かった。掲示板には、黄ばんだ時刻表の紙片と、剥がれかけた「本日運休」の札が重なっている。札の端が風もないのに揺れていた。

私はまず扉の蝶番を見た。次に床を見た。砂と細かな貝殻の欠片が、入口から切符売り場へ向かって途切れ途切れに落ちている。

誰かが海側から入ったのかもしれない。

そう考えた直後、切符売り場のガラス越しに白いものが見えた。

一枚の切符だった。

売り場の中にある発券機は、黒い布をかけられていた。機械の脇には、かつて切符を仕分けていたらしい木箱が並び、紙箱の角は波打っている。その中で、切符だけが新しかった。

私はガラス戸に顔を近づけた。

片道切符。行き先は北岬から霧見町外れの隣駅まで。現在は廃線になっている区間だった。切符の中央には、今日の日付が印字されている。

私は腕時計を見た。午後五時二十七分。

日付は間違っていない。切符に押された数字も、役場を出る前に書いた日付と一致している。

けれど、その切符がここにあることだけが、どうしても合わなかった。

私はガラス戸の脇に貼られた注意書きを読んだ。

切符売り場への立入禁止。  発券機は使用停止。  保守点検時以外、電源操作禁止。

切符の置かれた場所は、客側から見れば発券口のすぐ奥だった。ガラスの内側にある。誰かが中へ入らなければ、そこへ置くことはできない。

私は鍵穴を確かめた。古い錠前だが、埃が途切れている。鍵が差し込まれた跡が、周囲の黒ずみよりわずかに明るかった。

そのとき、駅舎の奥で小さな音がした。

金属が触れ合う音だった。

私は振り返った。待合室のベンチも、掲示板も、誰もいないホームへ続く扉も、薄い灰色の中に沈んでいる。音はもうしなかった。

私は名札に触れた。役場から支給された名札は、駅舎へ入るときに扉へ擦れたらしく、角に新しい傷がついている。

今日の時刻。  切符の券番。  発券口の位置。  鍵穴の擦れ。  入口から続く潮の粒。

私はメモ帳に、見たものを順番に書いた。書いている間だけ、目の前の不自然さが形を保つ。言葉にしないままにしておくと、違和感は霧のように広がり、何を見たのかさえ曖昧になる。

券番は、切符の右端に小さく印字されていた。

北岬駅の券番は、かつて五桁だったと役場の資料にあった。だが、その切符は六桁に見える。古い印字機の癖なのか、数字の一部が重なっているのか、ガラス越しでは判別できなかった。

私はポケットから定規を出し、ガラス面に沿わせて切符の位置を測った。発券口の中央ではない。右へ三ミリほどずれている。

印字も同じだった。日付の列だけが、切符の中央線からわずかに外れている。機械が傾いているなら、すべての文字が同じ方向へずれるはずだ。だが、ずれているのは日付と券番だけだった。

紙そのものを替えたのかもしれない。

私は思いついたことをすぐには書かなかった。推測と事実を同じ欄に置くと、あとで自分が混同する。メモ帳の左に確認できたこと、右にまだ確かめていないことを分けて記した。

切符は新しい。  日付は今日。  発券機は使用停止。  券番と印字位置に不自然さがある。  誰かが売り場へ入った可能性がある。

そこまで書いたところで、外から車の音が近づいてきた。

駅前の砂利を踏み、軽トラックが止まる。運転席から降りてきたのは、小柄な老人だった。濃い色の作業着を着て、片手に工具箱を持っている。車のドアを閉める前に、老人は駅舎を見上げた。それから、私の靴先へ視線を落とした。

「役場の若いのか」

「早川透です。今日から記録係として入ります」

「記録係ねえ」

老人は私の腕章を見て、鼻で息を吐いた。

「記録する前に、余計なものまで触るなよ。古い駅はな、触られた順番を覚えてる」

「榊原さんですか」

「松蔵でいい。呼び捨ては困るが、さん付けもむず痒い」

榊原松蔵はそう言いながら、私の横を通り過ぎた。工具箱を床に置き、切符売り場の前で足を止める。

ガラスの向こうの切符を見た瞬間、彼の顔から表情が消えた。

「これは、いつからですか」

「私が来たときには、もうありました。五時二十分ごろです」

「触ったか」

「まだです」

「なら、そこだけは偉い」

榊原は煙草を取り出したが、火をつけずに指先で揉んだ。湿気を含んだ紙のように、煙草の葉が小さく崩れる。

「今日の日付だな」

「はい」

「ここでは、今日の日付の切符は出ない」

「発券機が止まっているからですか」

「それだけじゃない。券紙が違う」

榊原はガラスへ近づき、目を細めた。

「この駅で使っていた紙は、もっとざらついていた。海風を吸うと、端から毛羽立つ。これは新しい紙だ。新しいが、今の券紙でもない。古い機械に通した紙を、あとから今日の日付にしたように見える」

「発券機を使わずに、日付だけを印字した?」

「知らん。まだ見ていないからな」

「では、なぜそう思うんです」

榊原は切符ではなく、ガラスの下端を指でなぞった。指先に薄い塩の粒がつく。

「紙が置かれた場所と、置いた人間の手が違う。紙は乾いている。だが、ここへ来た者は濡れていた。床の粒が証拠だ」

「海側から来た」

「海側から来たか、海側へ行ったかまでは知らん。ただ、駅の中に人間の体温が一度入っている。古い木は、誰もいないときと、人がいたあとで軋み方が変わる」

榊原は扉の方を見た。

「おまえ、音を聞いたか」

「さっき、奥で金属音がしました」

「そうか」

短い返事のあと、榊原は黙った。

私はその沈黙を待った。人が考えているとき、すぐに言葉を足すと、考えを途中で捨てさせてしまうことがある。榊原は駅舎の奥へ視線を向けたまま、片手で懐中時計を開いた。針を確認し、蓋を閉じる。

「資料庫を見せてもらえますか」

「今夜か」

「今日の日付の切符が残っているので」

「今日だから急ぐのか」

「今日だから、今日のうちに記録します」

榊原は私の顔を見た。強い目だった。怒っているようにも、試しているようにも見えた。

「記録すりゃ、何でも残ると思ってるのか」

「残そうとしなければ、何も残りません」

言ってから、少し言い過ぎたと思った。榊原は怒鳴らなかった。代わりに、切符売り場のガラスへ手を置いた。冷えたガラスの向こうに、白い切符が一枚だけ浮かんでいる。

「十年前も、そう言った奴がいた」

私はペンを止めた。

「誰ですか」

榊原は答えなかった。答えないまま、駅舎裏へ続く細い廊下を歩き始めた。床板が一枚、遅れて鳴った。

私は切符をもう一度見た。

今日の日付が、白い紙の上で乾いている。誰かが今日、ここへ来た。その誰かは切符を持ち去らず、使いもせず、発券口の奥に残した。

帰るために買ったのか。  帰れなかったから置いたのか。

まだ、どちらとも決められなかった。

榊原が廊下の先で振り返った。

「早川。記録係なら、まず名前を覚えろ」

「誰の名前ですか」

「この駅で、最後に切符を扱った奴の名前だ」

彼の声は、さっきまでより低かった。

「深町直人」

その名前だけが、湿った空気の中で、紙に書かれる前からそこに残っていた。

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