第10話 第十話「受け取れなかった紙片」

朝、家へ戻ると、母は台所の窓を開けていた。
晩秋の風がカーテンを膨らませ、流し台の脇に置かれた湯気の消えかけたマグカップを冷ましている。窓の外では、隣家の柿の葉が一枚ずつ落ちていた。落ちた葉は濡れた地面に貼りつき、どれも裏側の白さを見せている。
「学校は」
「これから行く。久我山さんが、正式な記録を取るから」
「そう」
母は振り向かなかった。まな板の上で、葱を細く切っている。包丁の音は一定だったが、切り終えた葱を寄せる手つきだけが、いつもより遅い。
「高遠さんに会った」
包丁が止まった。
「そう」
「朱音さんと、母さんが話したことも聞いた」
母は刃をまな板へ伏せた。切った葱の青い匂いが、狭い台所に広がった。私は鞄から透明袋を取り出し、食卓へ置いた。袋の中の紙片は、朝の光を受けて赤く見えた。
母はそれを見た瞬間、椅子を引いた。
「それを、どこで」
「学校で。高遠さんが持っていた。朱音さんが渡そうとした紙を、二十年間、持っていたって」
「……あの人が」
母は椅子に座らなかった。食卓の端に手を置き、紙片との距離を測るように指を伸ばした。けれど、触れる直前で止めた。
「母さんは、受け取らなかったんだね」
「受け取れなかったの」
「同じことじゃない?」
「違うわ」
返事が早かった。怒鳴ったわけではないのに、窓ガラスがわずかに震えた気がした。
「受け取っていたら、私はあの子の話を聞かなければならなかった。聞いたら、誰かに伝えなければならなかった。でも、当時の私は、そんなことをしたら自分の生活も、あんたの父親とのことも、全部壊れると思っていた」
「私は生まれていなかった」
「だからよ」
母はようやく椅子へ腰を下ろした。膝の上で手を組む。裁縫をするときの手だった。糸を通し、布の端を揃え、ほつれを見つける手。けれど、縫い直せないものの前では、指の置き場を失っていた。
「朱音は、紙を差し出してきた。赤い絵具がついていた。何か書いてあったと思う。でも私は見なかった。見ないで、『今は無理』と言った」
「何が無理だったの」
「全部よ。あの子の顔を見ることも、助けを求められていると認めることも。認めたら、私が大人として動かなければならない。でも私は、まだ自分のことで精いっぱいだった」
私は紙片の折り目を見た。何度も開かれ、また閉じられた跡。紙の端には、赤い絵具が乾いてひび割れている。
「朱音さんは、そのあと搬入口へ向かった」
「ええ」
「母さんは追った」
「追おうとした」
「でも、追いつかなかった」
母は黙った。
台所の時計が、秒針を刻んでいる。学校の廊下で聞いた、誰もいない場所の音に似ていた。音だけが進み、人間のほうはその場に取り残される。
「廊下で、先生に呼び止められたの。備品の数が合わないから確認してほしいと言われた。私は、少しだけならと思った。朱音を待たせても、すぐ戻れると思った」
「戻らなかった」
「戻れなかった」
「どうして」
母はマグカップを両手で包んだ。もう冷めているのに、指先を温めるように。
「戻ったときには、搬入口に誰もいなかった。朱音も、紙もなかった。神崎くんが廊下にいて、『もう帰ったんじゃないか』と言った。藤堂さんは何も言わなかった。小野寺くんは、文化祭を止めるわけにはいかないと言った」
「それで、母さんも黙った」
「ええ」
「なぜ」
「怖かったから」
高遠しのぶと同じ言葉だった。
けれど母の声には、二十年のあいだ生活の底へ沈めてきた重さがあった。怖かったという一言で済ませるには長すぎる時間が、台所の床に広がっている。
「私は、あんたを産むことに決めたばかりだった。誰かに頼ることが怖かった。学校の大人たちは、話を聞くより先に、問題を小さくする方法を探していた。私が声を上げたら、朱音のことだけでなく、私のことまで調べられる。そう思った」
「自分を守ったんだね」
「そうね」
「私を守ったんじゃなくて」
母は顔を上げた。瞳の中に、怒りとも痛みともつかない色が浮かんでいた。
「最初は、自分を守った。でも、あとから何度も、あんたを守ったことにした。そうしないと、私は自分のしたことを見られなかったから」
その言葉は、思っていたより静かに胸へ入った。鋭い刃物ではなく、縫い針のようだった。小さく、確実に皮膚を通る。
母は立ち上がり、食器棚の下から古い裁縫箱を取り出した。蓋を開けると、糸巻きや針山の下から、小さな布袋を出した。私が以前見つけたものと同じだった。
「これを持っていきなさい」
布袋の中には、錆びた金具のついた記章が入っていた。南星高校の校章。その裏側に、細い糸で紙が縫い込まれている。
「いつ縫ったの」
「あの夜のあと。捨てるつもりだった紙を、捨てられなかった。隠しておけば、誰にも見つからないと思った。でも、隠しているだけで、残したことになるとも思っていた」
「紙には何が書いてあるの」
「見ていない」
母はそう言ってから、少しだけ首を振った。
「見た。けれど、読めなかった。赤い絵具で、たぶん『ここ』と書いてあった。その下に、南の階段の印があった」
私は息を止めた。
《未完成の夕景》の裏打ちに残っていた言葉。まだ間に合うなら、南の階段へ。
「朱音さんは、南の階段へ行こうとしていた?」
「分からない。でも、あの子は私に紙を渡したあと、南の階段のほうを見た。私はそれを見ていたのに、意味を考えなかった」
「どうして今まで言わなかったの」
「言えば、あんたが探しに行くと思った」
「私はもう探している」
「分かってる」
母は布袋を私の手のひらへ置いた。記章の金具が冷たく、皮膚に食い込んだ。
「だから、もう止めない。ただし、朱音を見つけたことにしないで。分からないことは、分からないまま残して。私たちはずっと、分からないことを都合のいい答えで埋めてきたから」
私は頷いた。
「母さんも、記録に名前を出す?」
「出して」
母は窓の外を見た。
「私が何をしたか、書いて。受け取らなかったこと。追いつかなかったこと。黙ったこと。あんたを守ったという言葉で、何度も隠したこと」
学校へ戻る道で、布袋を鞄の内側へしまった。歩くたび、記章の金具が小さく鳴った。音は軽かったが、歩幅を変えさせるほど確かだった。
美術室では、桐生先生と久我山さんが資料を広げていた。高遠しのぶも来ている。机の上には配置図、記録写真、備品台帳、《未完成の夕景》が並び、紙の端がそれぞれ少しずつ違う方向を向いていた。
「朝霧さん、何か見つかりましたか」
久我山さんが訊いた。
私は布袋から記章を出し、机の中央へ置いた。
「母の記録です。朱音さんは、南の階段へ向かおうとしていた可能性があります。母は、あの夜に朱音さんと会っていました。紙を渡されましたが、受け取らなかった」
久我山さんは記章に触れず、写真を一枚引き寄せた。文化祭前夜の記録写真。画面の端に、南棟へ続く階段の手すりが写っている。その前に、白い袖があった。
私は写真を見つめた。
白い袖の下に、赤い絵具のついた紙がある。紙を持つ手は、階段のほうへ伸びていた。
写真の裏側には、二十時という書き込み。その隣に、薄く消された別の文字が残っている。
南。
桐生先生が息を呑んだ。
「これは、元からあった文字です」
「はい」
私は答えた。
「母の話と、写真と、作品の記号が一致します。でも、朱音さんが南の階段からどこへ行ったのかは分からない。そこから先は、まだ誰も見つけていない」
久我山さんが、手帳を開いた。
「なら、次は南の階段を確認します。現場を荒らさず、当時の搬入記録と照合する」
窓の外で、養生シートが大きく膨らんだ。白い膜の向こうに、午後の空が薄く透けている。
私は《未完成の夕景》の右端に残る朱を見た。
それは、誰かを待つ色ではなかった。
遅れてでも、次の場所を示し続ける色だった。
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