10話 記録の外側

港湾署へ戻るころには、雪は細かな雨へ変わっていた。

玄関の自動扉が開くと、暖房の乾いた風が顔へ当たった。濡れた外套から潮と雪の匂いが立ち上がり、廊下の白い床へ水滴が落ちる。夜勤の若い警官が一人、受付の奥で顔を上げた。私と久保田、それから彼女が抱える資料ケースを見て、何も聞かずに視線を戻した。

聞かないことも、署の習慣だった。

立花の部屋には灯りがついていた。

扉を二度叩くと、低い声が返った。

「入れ」

立花真由は机の向こうで、書類の右端を揃えていた。眼鏡の奥の目が、私の外套、久保田のケース、私の手にある保存袋へ順番に移る。

「遅かったな」

「報告がある」

「見れば分かる」

立花は保存袋を指した。

「それは何だ」

「相沢澪の紙片だ。三十年前、木下美咲が受け取って保管していた」

立花の指が止まった。

私は机の前へ進み、袋を置いた。灰色の紙片は透明な膜の中で、折れたまま沈んでいる。紙の中央には、薄く残った筆圧の跡があった。名前と、三本の線。久保田がすでに読み取った形だ。

「木下は、灰色の官製はがきを自分が出したと認めた」

「澪本人の筆跡ではないことは、もう確認済みだ」

「知っている」

「では、なぜ今さら」

「本人の名前を使う必要があった」

「片桐」

立花は眼鏡を外し、机の上へ置いた。

「順番に話せ。推測と証言を分けろ」

「木下の証言では、澪は失踪前に影山義弘の名前を書いた紙を残した。影山は澪を追って白波アパートから防波堤へ向かった。仙波と造船所関係者が、その後の現場に入った。事故に見せるため、何かを運び出した可能性がある」

「可能性」

「木下は、澪が防波堤下へ逃げたこと、影山が救助しなかったことを聞いている。ただし、直接見たわけではない」

「つまり、現時点で確実なのは、木下が紙片を保管していたことと、はがきを送ったことだけだ」

「そうなる」

立花は保存袋を見た。

「それでも、影山の名前が出た」

「名前だけではない。影山は今夜、白波アパートにいたことを認めた。ネガの管理印についても、否定しなかった」

「認めたのは、住民との相談のために訪れたことだろう」

「時間は夜十時過ぎだ」

「三十年前の記録に、訪問時刻は残っているのか」

「残っていない」

「なら、彼の発言と木下の記憶がぶつかっているだけだ」

立花の言葉は冷たくなかった。冷たくないからこそ、退路がなかった。

久保田がケースを開いた。

「課長。紙片の紙質と、匿名はがきの紙質は一致します。はがきの文面は、紙片の筆跡を模したものです。ただ、はがきに使われた筆圧は、木下さんの通常の筆跡とも一致しません」

「木下が誰かに書かせた可能性は?」

「否定できません」

「では、木下の証言だけで影山を追うことはできない」

「追うとは言っていません。確認が必要です」

久保田の声は静かだった。

「確認のためには、古い資料を捨てずに並べる必要があります。欠番ネガ、紙片、当時の伝票、電柱番号十四―三。どれも単独では弱いですが、同じ場所と時間へ集まりつつあります」

立花は久保田を見た。

「お前は、あの事件を知らなかったな」

「はい」

「それでも、影山が関わったと見るのか」

「関わった可能性があると見ています。人ではなく、資料の配置を見ています」

立花は短く息を吐いた。

「資料は、人間ほど嘘をつかない。だが、人間が並べたものだ」

「だから、並べ直しています」

部屋の外で電話が鳴った。二度、三度。誰かが急いで受話器を取る音がして、すぐに途切れた。

立花は私の方へ顔を戻した。

「片桐。木下の正式な聴取は明日だ。仙波と真田についても、任意で話を聞く。影山は最後にする」

「なぜだ」

「最初に影山へ行けば、相手は防御する。町の人間も、警察が一人を狙っていると受け取る。証言を固める時間を与えろ」

「その間に、証拠が消える」

「だから、資料の保全を先にする」

立花は机の端に置かれた古い通達ファイルへ目をやった。

「お前は、三十年前にも同じ場所にいた。今度は、焦って順番を飛ばすな」

「順番を守った結果、澪は消えた」

「順番を守らなかったから消えたとは限らない」

「俺が、聞かなかったからだ」

「それを証拠と混ぜるな」

言葉が机の上へ落ちた。

私は立花を見た。彼の声は低く、表情も変わらない。だが、右手の人差し指が、書類の角を一度だけ強く押さえていた。

「自分の罪悪感を、捜査方針にするな」

「罪悪感だけで来たわけじゃない」

「なら証明しろ」

「証明する」

「お前が告白するのは勝手だ。だが、告白を証拠にするな。自分が悪かったから、相手も悪いはずだという流れだけは作るな」

久保田が保存袋を閉じ直した。

「課長、その点は同意します。片桐さんの記述は、証拠ではなく経緯として扱うべきです。ただ、当時の聴取記録に欠落があることは、組織上の問題として別に残ります」

立花は彼女を見た。

「別に残す?」

「はい。事件の再検証と、当時の記録管理の検証は分けられません」

「署の古い傷を開くことになる」

「傷があるなら、開かなくても残っています」

立花はしばらく黙った。

窓の外で、雨がガラスを細く叩いていた。港の灯りは滲み、遠くのクレーンが濡れた闇の中で動かない。

「木下の紙片を、保管庫へ入れる」

立花が言った。

「久保田、お前が立ち会え。片桐は聴取記録の再整理をしろ。影山への聞き取りは、明日の午後だ」

「遅い」

「遅いのは三十年前からだ」

その言葉だけが、妙にまっすぐだった。

立花は私から視線を外し、書類の束を開いた。

「それから、片桐」

「何だ」

「お前の手帳の記述も提出しろ」

「俺の手帳を?」

「個人記録ではなく、捜査に関わる記録になった。隠すなら、今度はお前が欠番を作る」

私は手帳を取り出した。

革表紙は湿気を吸い、指に馴染んでいた。三十年間、書かなかった一行がある。書いたあとで消した跡もある。そこには、私が見たものより、見なかったものの方が多く残っている。

「写しを取る」

「原本は?」

「保管する」

「返してもらえるか」

「事件が終われば」

私は手帳を机へ置いた。

そのとき、立花の内線が鳴った。

彼はすぐに受話器を取った。短く名乗り、二度ほど相槌を打つ。表情は変わらなかったが、聞き終えたあと、受話器を置く手がわずかに遅れた。

「何かあったか」

私が聞くと、立花は答えなかった。

久保田が先に立ち上がる。

「課長?」

「署の裏手に停めていた、資料搬送車の後部ドアが開いていたそうだ」

部屋の空気が変わった。

「何が積まれていた」

「古い記録の廃棄分だ。明朝、処分予定だった」

「欠番ネガの複製は」

久保田の声が、初めて揺れた。

立花は内線の相手へ確認を取り、しばらく黙っていた。

「複製は、搬送車には積んでいない」

「では、何がなくなった」

私は聞いた。

立花がこちらを見る。

「三十年前の聴取記録、その原本の一部だ」

机の上で、私の手帳の革がきしんだ。

窓の外の港は、雨に濡れたまま暗い。誰かが署の中へ入り、廃棄されるはずだった記録だけを選んで持ち出した。

それは、盗むというより、戻す手つきに近かった。

私は手帳を立花の前へ押し出した。

「影山に電話する」

「今夜はしない」

「原本を持っている人間がいる」

「だからこそ、勝手に動くな」

立花の声が、初めて強くなった。

私は答えず、窓の向こうへ目を向けた。

港の暗がりに、ひとつだけ車の灯りが浮かんだ。ゆっくりと動き、署の裏手から離れていく。

ナンバーは見えなかった。

ただ、後部座席の窓に、灰色の紙が一枚貼りついているように見えた。雨に濡れ、街灯を受けて、短い文字だけが浮かんでいる。

まだ終わっていない。

私はそれを読んだ気がした。

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