第1話 山道の湿りと、家のぬくみ

沢の音が、道の下から途切れずに聞こえていた。
水量は多くない。岩の角を撫で、細い流れが幾筋にも分かれているだけなのに、杉林の中ではその音が妙に近く、足元から誰かが小声で話しかけているように響いた。
私は一歩ごとに、靴底へまとわりつく落ち葉の感触を確かめていた。濡れた葉は薄く滑り、踏み込むと土の中へ沈む。乾いた枝なら折れる音がするが、ここでは音のほとんどが湿気に吸われていた。斜面に沿って続く道は細く、崩れた石垣の隙間から苔が膨らみ、ところどころ根が地面を持ち上げている。
杉の匂いが濃い。樹脂の青さと、腐葉土の甘い湿り。その奥に、わずかに焦げた匂いが混じっていた。
私は足を止め、鼻から短く息を吸った。
煤だ。
風向きを確かめるため、顔を上げた。杉の梢は揺れていない。沢から吹き上がる冷たい風にも、煙の流れはない。匂いだけが、道の先に細く続いている。
「まだ歩けるか」
少し先で、北沢健が振り返った。
声をかける前に、彼は一度だけ唾を飲み込んだ。山道ではそれが癖なのかと思ったが、彼の視線が私の顔ではなく、私の靴と道の縁を順番に見ていることに気づいた。足を滑らせないか、戻る道を見失っていないか、確かめているらしい。
「歩けます。むしろ、ここからの方が見たいです」
「見たい、で入る道じゃない」
「調査地の説明としては、ずいぶん感情的ですね」
「山の道に、外の言葉を当てはめると転ぶ」
北沢はそう言って、また前を向いた。大きな体が斜面の陰へ沈む。足音は軽かった。林業の仕事で身についたものなのか、落ち葉の厚い場所でも、彼は足を置く前に地面の具合を読むように歩いた。
私は黒い手帳を開き、歩きながら書いた。
午前八時四十七分。沢筋への進入。湿度高。杉、腐葉土、煤の匂い。道幅およそ一・五メートル。石垣、人工的な積み方だが崩落後の補修痕なし。
書き終えてから、最後に「煤の匂い、発生源不明」と付け足した。
私は、初めて入る部屋では出入口と火元を数える。幼い頃からの癖だった。調査で訪れた家でも、ホテルでも、まず玄関、窓、台所、暖房器具を確認する。安全のためというより、空間の中心を決めるためだ。人が暮らしていた場所には、必ず熱の集まるところがある。竈、囲炉裏、火鉢、ストーブ。そこを見れば、家の人間がどの向きで座り、何を守り、何を遠ざけていたかが少し分かる。
道の先に、黒い屋根が見えた。
杉の間から現れた家は、斜面に腹を押しつけるように建っていた。壁板は雨に洗われ、戸袋の一部が外れかけている。それでも屋根の線は崩れていない。軒下には薪が積まれ、細い木切れまで長さをそろえて束ねられていた。
「これが旧・真柴家ですか」
「そうだ」
「管理されているんですか」
「されてない」
「薪が濡れていません」
北沢は返事をしなかった。
私は玄関の前に立ち、戸の取っ手へ手を伸ばした。金具は冷たかったが、触れた指先にほんの少しだけ油の感触が残った。埃に覆われているわけではない。誰かが最近、動かしたのだろうか。
戸を開ける。
古い家の中には、長く人が住んでいない場所特有の乾いた冷えがある。畳が湿気を抱え、木材は外気と同じ温度になり、匂いだけが沈殿している。私はそれを予想していた。
けれど、最初に鼻へ触れたのは冷気ではなかった。
鍋の蓋を取った直後、金属の裏側に残っているような、薄いぬくみだった。
私は戸口で動きを止めた。
土間。囲炉裏。奥の座敷。裏口。四つ。
四つ数えたところで、家の中の整い方に目が向いた。
土間の箒は壁に立てかけられ、穂先が濡れた床へ触れないよう、細い木片が下に噛ませてある。薪は太さごとに分けられ、火箸は二本、先端をそろえて囲炉裏の右側に置かれていた。灰は黒ずんでいるが、表面だけが丁寧にならされている。
誰も住んでいない家の整い方ではなかった。
「いつまで、ここに泊まる」
背後で北沢が言った。
「まず一週間です。必要があれば延ばします」
「必要があるかどうかは、入ってから決めることじゃない」
「では、いつ決めるんですか」
北沢は斜めに立ったまま、囲炉裏へ目を向けた。そこへ視線が触れた瞬間だけ、彼の指が軍手の先を引いた。
「帰れるうちに決める」
「帰れない可能性があるように聞こえます」
「そう聞こえたなら、そういうことだ」
「北沢さん」
呼び止めると、彼は振り返らずに答えた。
「火の話は、家の中でしない方がいい」
「火の話をしに来たんです。真柴集落の火の習俗と、生活痕の残存を調べるために」
「習俗って言葉にすれば、何でも外から見られると思うな」
「見られないものを、見られないままにしないための調査です」
「見たものを紙に書く。それで終わるなら、誰も困らない」
「終わらないんですか」
「書いたものは、残る。残ったものは、あとから誰かが読む。読んだ人間が、またここへ来る。そうやって、終わった場所に足音が戻ることがある」
彼の声は低く、怒ってはいなかった。むしろ怒らないように押さえている声だった。
「それでも記録します」
「学者は、何でも記録するのか」
「何でもではありません。確認できたものを記録します」
「確認できないものは」
「確認できないまま、そう記録します」

「それで納得するのか」
「納得は目的ではありません。事実に近づくことが目的です」
北沢はしばらく黙っていた。沢の音が、家の裏手から濡れた布のように流れ込んでくる。
「……あんたは、火を見ても怖がらない顔をするな」
「怖がっていないわけではありません」
「そうは見えない」
「怖がっているから、見ます。見ないものは、どれくらい怖いのかも分からないので」
北沢は初めて私の顔を見た。すぐに目を逸らしたが、その一瞬、彼の表情に疲労のようなものが浮かんだ。
「今夜、戸は内側から掛けろ」
「分かりました」
「囲炉裏は使っていい。ただし、寝る前には消せ」
「もちろんです」
「完全に」
念を押す言い方だった。
私は囲炉裏へ近づき、灰の表面を観察した。細い筋が三本、炉の奥から手前へ伸びている。灰ならしの跡だろう。火の痕跡は見えない。炭もほとんど残っていない。だが、炉の中央には指先ほどの黒い塊があり、触れずに見る限り、それが炭なのか煤の固まりなのか判別できなかった。
持参した細いピンセットでつまむと、塊は軽く崩れた。内側は赤くなかった。
私はそれを小袋へ収め、採取時刻を書いた。
北沢が土間の外へ出ようとしていた。
「北沢さん」
「何だ」
「この家は、本当に誰も使っていないんですか」
彼は戸口で立ち止まった。外の白い光が背中を縁取っている。
「人は、いない」
「質問を変えます。この家を整える人は」
「いない」
「今、そう答える前に間がありました」
「山では、言葉を選ぶ」
「火の話だけ、特に」
北沢は答えなかった。
返事の代わりに、彼は玄関脇の薪へ手を伸ばした。いちばん上の一本を取り、重さを確かめるように掌で転がす。木口は新しく、切断面に薄い樹脂が光っていた。北沢はそれを元の位置へ戻し、束の端を指で押してそろえた。
「ここを空き家と呼ぶな」
「では、何と呼べばいいんですか」
「真柴家だ」
「人がいなくても?」
「家は、人間だけで出来てない」
それだけ言って、北沢は山道へ戻っていった。
私はしばらく戸口に立ち、彼の足音が沢の音に混ざって消えるのを聞いた。
日が落ちる前に、簡単な寝床を整えた。座敷の隅に寝袋を敷き、懐中電灯と手帳を枕元へ置く。携帯電話は圏外だった。窓の外は杉の幹ばかりで、空の色さえ見えない。
囲炉裏で湯を沸かし、煎り番茶を淹れた。茶の焦げた香りが、煤の匂いと重なった。湯気は一度、囲炉裏の上で立ち止まるように揺れ、それから梁の方へ細く伸びて消えた。
私は夕食を済ませると、火の状態を記録した。
午後六時十二分、着火。薪二本。炭化の進行、良好。午後八時四十一分、薪を追加せず。灰の色、灰白色。炉縁左側に煤の付着あり。
最後に、火を消す前の所作を撮影した。
火箸で炭を中央へ寄せ、灰をかぶせる。燃え残りがないことを確認し、灰ならしで表面を平らにする。私はそれを、研究者として必要な手順だと思っていた。
けれど火箸を炉縁へ戻すとき、手が一度止まった。
先端をそろえ、柄の角度を合わせる。
その動作を、私は知っていた。
どこで覚えたのかは分からない。子どもの頃、祖母の台所で見たような気がする。祖母は火の前に立つと、普段より背筋を伸ばした。何かを言うことはなかった。ただ灰をならし、火箸を置き、置いたあとに一度だけ息を止めた。
私は今、同じように息を止めていた。
気づいて、すぐに吐き出す。
「炉前の作法」と手帳に書きかけて、私は筆を止めた。あまりに早い。まだ、祖母の記憶とこの家を結びつける証拠はない。記憶は物証ではない。既視感は記録できても、事実の根拠にはならない。
そう考えながら、灰の表面をもう一度見た。
平らだった。
私は火が消えていることを確かめ、囲炉裏から離れた。戸締まりをし、裏口の掛け金を確認し、最後に玄関へ戻る。
背中を向けた囲炉裏から、かすかな音がした。
炭が崩れた音に似ていた。
振り返ると、灰は暗く静まっている。赤いものは見えない。私はその場で数秒待ったが、続く音はなかった。
それでも、寝床へ入る前に手帳を開き、最後の行を書き足した。
午後九時十七分。囲炉裏消火確認。室内に煤の匂い、継続。
書き終えたとき、梁の上から、冷えた木の匂いが落ちてきた。
その中に、朝から道の奥で嗅いだのと同じ、薄い炭の匂いが混じっていた。
← 横にスクロールして読み進められます
