第2話 乾いた朝、湿った痕跡

資料館の一階へ戻ると、海霧の白さが窓ガラスに貼りついていた。展示室の照明はまだ半分しか点いていない。石壁に沿って並ぶ古い船具や港湾図が、薄暗がりのなかで誰かの記憶のように浮かんでいる。
相馬誠は受付脇の机に、入退館記録と警備日誌を並べていた。紙の端を揃え、腕時計を見てから、私のほうへ顔を向ける。
「昨夜、閉館したのは十八時です。最後に職員が館を出たのは十八時二十七分。警備員の巡回は十八時四十分、二十一時、零時、三時。記録上は異常なしです」
「記録上は、ですか」
「巡回した警備員は、四回とも同じ表現を使っています。『展示室、異常なし。収蔵区域、施錠確認』。一字も違わない」
「同じ人が書いたのでは?」
「三人です。筆跡は違う。ただ、文章の並びが同じです」
相馬は警備日誌の頁を私に向けた。三人分の筆跡が並び、似た文句が同じ位置に置かれている。偶然にしては整っている。整っているというより、整えられている。
「誰かが書き方を指定した」
「そう考えるには、もう一つ必要です」
相馬は小さなメモを差し出した。
「巡回員の一人は、地下収蔵庫の前を通っていません。本人は通ったと言っていますが、靴底に付着した石粉の種類が一階の石材と違う。鑑識からの報告待ちですが、現場の床を見た限りでは地下のものに近い」
「通ったのに、見なかった?」
「あるいは、見たことにされた」
相馬の声は淡々としていた。だが、手帳に書き込まれた一行だけが濃い。
そのとき、廊下の奥から黒瀬悠人が現れた。革の鞄を片手に、濡れた外套を丁寧に脱いでいる。五十代の男だが、表情には疲れよりも人を安心させるための柔らかさが先に浮かんでいた。
「相馬さん、朝からご苦労さまです。皆さん、さぞ落ち着かないでしょう」
「落ち着いてはいません」
澪が言った。
黒瀬は彼女の前で足を止めた。
「ええ、そうでしょう。けれど、いま大切なのは、誰かを責めることではなく、資料の安全を確保することです。公開の範囲も、報道への説明も、手順を踏んで決めましょう。建市文書が盗まれたとなれば、旧市街だけでなく、外港の計画にも影響が出ます。まずは混乱を広げないことが、街のためです」
「街のため、という言葉は便利ですね」
私が言うと、黒瀬は穏やかに笑った。
「便利だからこそ、慎重に使うべきです。蓮見さんは記者だった。事実を出すことの大切さはご存じでしょう。しかし、出した事実が誰の手に渡り、どの順番で利用されるかまで考えなければ、正しさが別の暴力に変わることもある」
「それで、記録を伏せる」
「伏せるのではなく、整えるのです。相続証書を掲げる旧家も、再開発を急ぐ企業も、文書の一部だけを根拠にするでしょう。全体を見せる前に断片が出れば、街はそれぞれの正義に引き裂かれます」
澪の指が、机の上でわずかに動いた。
「全体を見せない理由にはなりません」
「理由ではなく順番です」
黒瀬は彼女の言葉を柔らかく受け止めた。受け止めたように見えた、と言うべきかもしれない。
私は彼の手元を見た。革の鞄から取り出された書類は、角まで揃っている。だが一枚だけ、紙の下端がわずかに波打っていた。海霧を吸った紙ではない。湿った場所から急いで抜き取った紙の反り方だった。
「黒瀬さんは、昨夜どこにいました」
相馬が尋ねた。
黒瀬は一拍置いた。
「市役所で、再開発に関する打ち合わせをしていました。二十時過ぎには退出しています。その後は自宅です」
「市役所からご自宅へ直行した記録は」
「車の記録なら提出できます。ただ、私を疑うのは構いませんが、いまはもっと優先すべきことがあるのでは?」
「疑っているわけではありません。確認しています」
相馬はそう答え、時刻を書き留めた。
黒瀬は笑みを消さなかった。けれど、鞄の留め金を閉じる指が一度だけ滑った。
私は窓の外を見た。霧の向こうで、港のクレーンが輪郭を失っている。街の形が見えないのではない。見せるものを誰かが選んでいるようだった。
昼前、澪が目録原本の控えを持ってきた。第七綴りと第九綴りのあいだにある空白を、彼女はしばらく見つめていた。
「この行を、誰が削ったかはわかりません」
「でも、何が書かれていたかは知っている」
「……はい」
「話せますか」
澪はすぐには答えなかった。窓辺の霧が薄れ、展示室に港の灰色が差し込む。
「建市文書は、街を祝う記録ではありません。街を成立させるため、誰かが何かを手放した記録です。土地も、権利も、名前も。その一部が、いまの再開発に触れている」
彼女は控えを閉じた。
「だから、盗まれたのは紙ではない。誰がこの街を名乗る資格を持つのか、その根拠です」
私は空白へ目を戻した。紙の上に何もない一行が、地下の濡れ跡よりも長く、私の前に伸びていた。
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