第1話 赤い背表紙と未読の朝

九月の朝、備品室にはまだ夏の埃が残っていた。
窓を少し開けると、乾いた風が入ってきた。古い木材と、湿気を吸った段ボールと、昨日使った黒い塗料の匂いが混じっている。僕は棚の前にしゃがみ込み、赤い背表紙の稽古ノートを一冊ずつ抜き出しては、番号の順に並べ直していた。
十一、十二、十三。背表紙の高さが少しずれている。僕は十二のノートを三ミリほど右へ寄せた。
その動きの途中で、掌の中のスマホが震えた気がした。
実際には震えていない。通知音も鳴っていない。それでも僕は、反射的に画面を伏せたまま握り直した。
昨夜、結衣に送った文面が残っている。
『もう来なくていい』
送信してから、すぐに取り消そうとした。けれど指が画面に触れるより先に、既読の表示がついた。たった二文字の表示だった。なのに、そのあと何度画面を閉じても、黒いガラスの奥からこちらを見返してくる。
取り消した文は、取り消されていない。
そういうことだけは、舞台の段取りより正確だった。
僕はノートの表紙についた埃を指で払った。紙の端が爪の脇をかすめる。痛みは小さく、都合がよかった。痛い場所が決まっているほうが、まだ扱いやすい。
「桐生、もう朝の会始まるよ」
廊下から声がした。僕は立ち上がり、スマホを制服のポケットにしまった。備品室の鍵を閉める前に、赤い背表紙がすべて同じ幅で見えているか確認する。少しでも乱れていれば直したくなる。けれど、今朝は一冊だけ、背表紙の下端が棚板から浮いていた。
指を伸ばしかけて、やめた。
遅刻する。
その程度の乱れを残したまま、僕は備品室を出た。
教室へ戻ると、担任が出席簿を開いていた。窓際の席から、夏休み明けの生徒たちの声がばらばらに聞こえる。机を引く音、ペットボトルの蓋をひねる音、誰かの笑い声。いつもの朝なのに、どの音も少し遠かった。
出席簿の名前が上から読まれていく。
有坂結衣。
担任の声が、その欄だけで一拍止まった。
「有坂は……今日も欠席か」
僕は顔を上げなかった。机の中で、指がシャープペンシルの軸を回している。回しすぎて、指先の皮膚が熱を持った。
昨日までは、欠席ではなかった。稽古にも来るはずだった。少なくとも僕はそう予定表に書いていた。
正確には、来ると言われたわけではない。結衣が台本を持って帰るのを見て、僕が勝手にそう判断しただけだ。
昨日の稽古では、結衣の出番に照明の変更が重なっていた。大道具の転換も遅れ、舞台袖の小道具が一つ足りなかった。僕は何度も確認を求めた。結衣は「あとで見る」と言い、僕は「あとでは間に合わない」と返した。
そのあと、彼女は台本を閉じた。
僕が送った文は、その続きだった。
昼休みになっても、結衣から返信はなかった。
正確には、未読ではない。既読のまま、何も返ってこない。けれど画面の上には、僕が送る前の文章の候補や、消した下書きの空白まで並んでいるように見えた。
演劇部の部室へ向かう廊下は、授業が終わったばかりのせいでまだ人が多かった。窓の外では、駅前の工事現場から金属を打つ音がしている。再開発の囲いに貼られた白い広告が、風のたびにばたばた鳴った。
部室の扉を開ける。
机の上には台本が積まれ、養生テープが一本、床に転がっていた。結衣の水筒も、昨日と同じ場所に置かれている。半分ほど残った水が、窓から差す光を揺らしていた。
そこに本人だけがいない。
「有坂、今日も休みなんだって?」
部員の一人が、台本をめくりながら言った。
「みたい」
「連絡つかないの?」
「……つくと思う」
答えてから、僕は一拍置きすぎたことに気づいた。相手はそれ以上聞かず、台本へ視線を落とした。
黒川先生が入ってきた。片手に古い照明図面、もう片方に白いメモ帳を持っている。先生は挨拶を返す代わりに、床の養生テープを拾い、机の端へ置いた。
「今日の流れ。通しは中止。代役を立てて、結衣の場面だけ確認します」
誰かが小さく息を漏らした。
僕は段取り表を開いた。結衣の出番、照明の入り、袖で渡す小道具。文字にすれば、順番は崩れていない。けれど、その一行だけが紙の上で浮いていた。
「桐生。代役の候補は」

「一年の水野なら、台詞の量は足ります。ただ、立ち位置を変える必要があります。照明の二番と三番も、少し――」
「考えてあるなら、口にして」
黒川先生の声は低かった。責める調子ではない。ただ、僕が紙の上だけで考え続けることを許さない声だった。
「水野に頼みます。今日のところは、結衣の立ち位置を空けたまま進めます」
「空けたまま?」
「本人が戻ったとき、動線を変えずに済むので」
先生は僕の顔を見ず、机の上の台本を一冊だけ取り上げた。結衣の台本だった。表紙の隅に、細い鉛筆で小さな印がいくつもついている。息継ぎの位置、視線を置く場所、台詞を少し遅らせる箇所。結衣は感情より先に、呼吸を台本へ書き込む。
先生はそれを僕に差し出した。
「持っていって」
受け取るとき、僕の指先が紙の端に触れた。
「有坂に、ですか」
「今は水野に。本人が戻るまで、台本は誰かの手にある必要がある」
その言い方が、妙に引っかかった。
誰かの手にある必要がある。戻るかどうかではなく、戻るまで。先生はそう決めつけているわけではない。ただ、舞台を止めないために、可能性を閉じない置き方をしている。
僕にはそれができなかった。
結衣に送った一文は、可能性を閉じるための言葉だった。来られない事情も、来たくない理由も、何ひとつ聞かずに。
僕は台本を胸元で持ち直し、スマホを取り出した。
『昨日のこと、ごめん』
打って、消した。
『言いすぎた』
それも消した。
『本当は来てほしい』
指が止まった。
その文の下に、別の言葉が浮かんだ。来てほしいのは、舞台のためだけではない。けれど、それを送れば、結衣にまた何かを背負わせる気がした。僕の都合を、今度は柔らかい言葉で渡すだけになる。
画面を閉じた。
「桐生」
黒川先生が呼んだ。
「はい」
「水野に説明して。結衣の役を奪う説明ではなく、場面を預ける説明を」
僕は返事をしなかった。
先生は急かさず、図面の端を揃えた。紙同士が擦れる音だけが部室に残った。
僕はやっと、台本を水野の前へ置いた。
「ここを読んでほしい。結衣の立ち位置はそのまま。台詞が抜けても、僕が袖から合図する」
「でも、有坂先輩、戻ってきたら……」
「そのときは返す」
言ってから、胸の奥で何かがわずかに動いた。
返す。
椅子も、台本も、立ち位置も。失敗した言葉まで返せるとは、まだ思えない。それでも僕は、空いた場所を埋めるのではなく、空いたまま支える方法を初めて考えていた。
放課後の校舎に、部員たちの足音が散っていく。僕は最後に部室を出て、備品室へ戻った。赤い背表紙のノートの下端が、朝と同じように少し浮いている。
今度は指で押し込んだ。
棚は元の形に戻った。けれど、スマホの画面を開くと、結衣の名前の横には既読の表示だけが残っていた。
僕はその表示を消そうとせず、画面を伏せた。
そして、明日の代役の段取りを、初めて「結衣が戻るかもしれない場合」まで含めて書き始めた。
← 横にスクロールして読み進められます
